商品番号:K10206
国名:日本
種類:中筒/大筒

火縄銃 阿波十匁中筒 「陰松皮菱ニ分銅紋」真鍮象嵌 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、在銘: 惣二重巻張 阿州笠井勝右衛門正行、明治十六年三百四十七番 徳島縣)

¥880,000
税抜 ¥800,000
商品番号
K10206
発売日
2026/05/23
取扱店舗
東京店
在庫
1
英名
Japanese Large-caliber Matchlock Gun, AWA Style
種類
火縄銃
国名
日本
時代
江戸時代後期
全長
1,028mm
口径
18mm
装弾数
単発
【火縄銃 阿波十匁中筒 「陰松皮菱ニ分銅紋」真鍮象嵌 (在銘: 惣二重巻張 阿州笠井勝右衛門正行、明治十六年三百四十七番 徳島縣) について】
本品は阿波筒 (阿州筒) と呼ばれる阿州 (=阿波国、現在の徳島県) で製作された火縄銃です。 阿波の鉄砲鍛冶によって作られた典型的な阿波の中筒です。 阿波筒は細筒であればかなり特徴的なので、一見して阿波の鉄砲であることが判りますが、中筒~大筒に関しては現存品も少なく研究があまり進んでいません。 しかしながら、阿波の中筒/大筒にもはっきりとした特徴があります。 細筒と同じく銃身が肉厚で銃身の太さに比べ口径が小さい点です。 更に他国の中筒では丸銃身の上部一面だけが平らな「表一角」が多いのに比べ、八角銃身であり八角柑子を持つ品が多いこと、照準器に特徴があり、元目当ての形状は阿波中筒定型の凝った「透かし袖型」であること、銃床後部 (台かぶ) 部分が大きく短いこと、台 (銃床) は明るい色合いが多く、中筒であっても虎柄の縞目がある品もある事などが挙げられます。

本品は誠に立派な中筒で、重量が約7,95kgもあります。 特筆すべき点として、台かぶが特異なほど太く、通常の中筒とは大きく形状が異なります。 実用を考えるとかなり構え難く特別な射撃法 (流派) があったと思われます。
引金の後方にはナマコ金が設けられています。 国内で最も阿波筒について詳しい記述がある「徳島市立 徳島城博物館」の企画展「阿波の鉄砲~鉄砲からみた阿波史」の図録にもほぼ同型の中筒が掲載されています。 徳島藩の砲術、流派が他国と違った独自のものっだたのでしょうか、 この特殊な形状の中筒が阿波国では一般的でした。
筒 (銃身) は八角銃身で、柑子も八角となっており、また銃身は肉厚で一見二十匁ほどの大きさがあるように見えますが、実際の口径は約18mmで十匁です。 阿波中筒の掟通りです。 元目当ても阿波中筒で見られる典型的な「透かし袖型(片透かし)」です。 本品は阿波中筒の掟をほぼ全て押さえており、更にこれからの研究が必要な特殊な台かぶを備えた興味深い一挺です。

徳島藩祖の蜂須賀家政は鉄砲に力を入れ、火縄銃が日本に伝来してから大凡そ80年後の寛永四年 (1627年) に書かれた「幕府隠密の偵察記」には、「蓬庵ふだん鉄砲の者ほど役に立つ者無之候とて、大勢御扶持候由、鉄砲の数二千の上有之、鉄砲頭一人に二十人、三十人宛御預け、頭七十ほど御座候由」と記して鉄砲の重要性を説いています。

本品は在銘品で、銃身下面に「惣二重巻張 阿州笠井勝右衛門正行」と入っています。「笠井勝右衛門正行」については、「全国鉄砲鍛冶銘鑑」P. 74及び「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」P. 308にその銘が掲載されています。阿波国では鉄砲需要が拡大した幕末期、多くの刀工が鉄砲鍛冶に転向しました。幕末期、阿波の 新々刀期を代表する刀鍛冶集団・笠井(かさい)一門も鉄砲を作った事が知られています。 阿波國の鉄砲鍛冶は「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」のP.296からP.322を見ると(同人を含め)石川一門が110人、笠井一門が33人、井川一門が21人、石田一門が20人、磯村一門が12人、井上一門が10人、石井一門が5人の順になっています。 石川一門が圧倒的に多く徳島県西部の美馬市脇町別所を中心とし、笠井一門が続き吉野川市鴨島町で一大鍛冶集団を形成しました。 これは十代藩主重喜が石川家と笠井家から石川正守、石川正直、笠井尊輝を江戸の名刀工「水心子正秀」に弟子入りさせ阿波国内で作刀技術を高めると共に、銃砲製造も奨励した結果によるものです。 また十三代藩主斉裕の兵制改革(文久二年=1862年)によって繁栄を極めました。しかしながら、幕末期には管打式の西洋銃が火縄銃にとって代わり、最盛期には約260名ほどいた鉄砲鍛冶は火縄銃型の管打式銃の製作、もしくは火縄銃を管打式に改造する作業に携わりました。 阿波の鉄砲鍛冶は西洋式の銃砲製造は行わず、明治時代にはほぼ全ての鉄砲鍛冶は廃業しました。

【「明治十六年三百四十七番 徳島縣」刻印について】
本品の台(銃床)の後部下方(胴金の後ろ)に「明治十六年三百四十七番 徳島縣」の刻印が入っています。 これは壬申刻印に相当する検査刻印と考えられます。 「壬申刻印」とは「壬申の年 (明治5年)」に施行された古式銃の一種の戸籍登録番号で、本品はそれに相当するものです。 「壬申の年(明治5年)」の11年後に登録された干支では「癸未 (みずのとひつじ、きすいのひつじ、きび)」にあたりますが、「癸未刻印」とは一般的には呼びません。
明治4年、明治陸軍は主力小銃の統一化を図るにあたり、旧藩に残る銃砲の種類、挺数の把握が急務となりました。 翌明治5年 (1872年、壬申) 1月から、太政官布告第28号第五則の「銃砲取締規則」によって、私蔵されていた銃砲の「我が国初の管理統制」が始まりました。 廃藩時に旧藩は旧家臣に軍用銃を下付した事例が多く見られ、旧士族の家には一挺の軍用銃があったとも言われています。 それらの銃はその後市中に大量に出回り私蔵されていました。 銃砲取締規則ではこれらの私蔵されていた銃砲について、管轄庁 (東京と大阪は武庫司) に持参して改刻印式によって番号、官印を受ける (これが明治5年度であれば壬申刻印と番号) 事が義務付けられました。 同時に管轄庁は同人名と番号を管轄鎮台に届け出て、鎮台より武庫司にそれらが提出される仕組みになっていました。 この銃砲調査は明治20年代頃まで行われましたが、明治5年 (1872年=壬申) の調査が最も大々的に行われ、今日この種類の刻印の内90-95%が壬申の年に行われた事から、古式銃に打たれた漢字の刻印は、まとめて「壬申刻印」と呼ばれています。 本品には「明治十六年三百四十七番 徳島縣」の刻印が入っている事から、明治16年に届け出が行われた品である事が判ります。 また、本品には徳島県教育委員会が交付した銃砲刀剣類登録証が付いている事から、本品が明治時代に届け出が行われて以降、徳島県内に存在していた事が窺え、さらに本品が阿波筒である事とも整合性が取れています。

銃身上部後方に作域の良い「陰松皮菱ニ分銅紋」が真鍮象嵌で配されています。 「陰松皮菱に分銅紋」自体は阿波地方に限定された家紋ではありません。 しかしながら、阿波国で鎌倉期に勢力を持った小笠原氏の一族が松皮菱または三階菱の家紋の様々なバリエーションを用いたので、阿波小笠原氏の流れを汲む家系が使っていた家紋である可能性はあります。 (MM)

【本個体の説明】
本品の銃身にはやや表面錆や時代錆や若干の朽ち込み痕が見受けられるものの、全体としては目立った欠損等は見られず、概ねしっかりとした状態が保たれています。 銃身下面に切られた銘についても、はっきりと確認出来ます。 また、元目当後方の銃身上面に配された真鍮象嵌についても良好に残っています。 銃身下面の目釘金具の位置と銃床の目釘穴の位置は3箇所とも一致しています。 尚、目釘は付属しておりません。
台木 (銃床) については、若干の打ち傷の他、床尾後端に僅かな虫食いが見られるものの、全体としては大きな破損等は見られず、製造された時代を考慮すれば非常に良好な状態が保たれています。 銃床下部の「明治十六年三百四十七番 徳島縣」の刻印についても、「縣」部分のみ薄くなり判読がやや難しくなっていますが、それ以外の部分についてははっきりと判読可能です。 カラクリの地板や胴金、雨覆、火蓋、引金、ナマコ金といった真鍮部品については、若干の打ち傷は見られますが、現状目立った腐食等は見られず、適度な時代感が付いた良い雰囲気となっています。 カラクリの作動については完全で、火挟を起こした際のロックはしっかりと掛かり、引金を引くと火挟がスムーズに落ちます。 火蓋の開閉についても問題なく行うことが可能です。 銃身内は銃口から銃身後部まで完全に抜けて (通って) おり、火穴も抜けています。 尾栓については現状固着しており、取り外しは出来なくなっています。 木製のカルカ (さく杖) が付属いたします。
本品は珍しい阿波筒の中筒であり、明治16年に徳島県で届け出が行われ、銃砲刀剣類登録証が交付された昭和48年まで徳島県内に存在していた事が窺える品です。 (KK)

【登録証情報】
(種別: 火なわ式銃砲、全長: 102.8cm、銃身長: 73.2cm、口径: 1.8cm、銘文: 惣二重巻張 阿州笠井勝右衛門正行)

【その他の情報】
昭和48年12月10日に徳島県教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証が付いた完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。

古式銃は約150年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、詳細画像を十分ご確認いただいた上でご注文ください。

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