- アイテム説明【十文字槍 (銘: 幕府士川井久幸七十三歳作 安政五午年五月 應 北越新發田 藩臣 佐治爲矩 需)について】
上鎌十文字槍(あがりがま-じゅうもんじやり)は鎌槍の一種で、槍の身(み)または穂(ほ)に左右両方に鎌枝のあるものを両鎌(りょうがま)槍、または十文字(じゅうもんじ)槍といい、枝の位置、方向(上下)などの種類があります。 本品は両側の鎌が上を向いている上鎌十文字槍です。
幕府士川井久幸(ばくしし-かわい-ひさひき)の七十三歳時の作品である事が銘に刻まれています。
川井久幸は明治元(1868)年に生涯を閉じた幕末期の刀工です。 本名を川井亀太郎といい、天明6(1786)年に現在の群馬県、上野国(こうずけのくに)佐位(さい)郡川井村で幕府旗本川井家に生まれ、江戸に出て後に東京砲兵工廠があった小石川に屋敷を持っていました。 幕末の小石川には刀工や銃工が多く住んでいました。 「幕府士」と銘を切るとおり幕府旗本の武士でした。 その他「幕府世臣久幸」「常省子久幸作」とも銘を切りました。 中山一貫斎義弘(なかやま-いっかんさい-よしひろ)から鍛刀を学んだ後に、細川正義(ほそかわ-まさよし)一門の清水久義(しみず-ひさよし)に師事しました。 久幸の「久」の一字は師の久義から一字を与えられたと推測されます。 系譜から川井久幸は、水心子正秀-細川正義-清水久義-川井久幸と続く、新々刀の名門ということができます。 地味ですが切れ味を重視した槍を多く制作し、特に十文字が上手で幕臣からの注文品に多くの名槍を残しました。 また、制作年や自身の年齢などの丁寧な銘文を入れることにも特徴があります。
川井久幸の槍以外の作品には、本品と制作年が近い東京国立博物館蔵の「薙刀身 幕府臣川井久幸七十四歳作」や東京都台東区今戸にある熱田神社蔵の区有形民俗文化財「大太刀 陰陽丸(いんようまる)」などがあります。 「大太刀 陰陽丸」は川井久幸が熱田神社に奉納し、現在も保存されている宝刀で、安政5(1858)年のコレラ流行の際に疫病を祓うため町内を巡行しました。
また年期も刻まれており安政五午年五月(1858年5月)の作品です。 安政5年は2月に飛越地震、6月に日米修好通商条約の締結、8月に江戸でのコレラ流行、そして9月から安政の大獄が始まった激動の一年でした。
さらに、この槍の特筆すべき点は「應 北越新發田 藩臣 佐治爲矩 需」と刻まれていることから現在の新潟県、越後国(えちごのくに)の新発田(しばた)藩の藩臣(藩士)の為に作刀された事が判ることです。
新発田藩は現在の新潟県新発田市にあたる越後国蒲原(かんばら)郡新発田を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩です。 藩庁は新発田城、藩主は溝口家、家格は外様大名で、石高は6万石、後に5万石から10万石と推移しました。
もともとは越後大名の上杉謙信が領していた当地でしたが、その後、関ケ原処分に際し、家康率いる東軍に与することでその所領を安堵された豊臣家の臣・溝口秀勝(みぞぐち-ひでかつ)が立藩しました。 親藩や譜代家が目立つ越後にあって、6万石を有する外様藩主となりました。 石高としては6万~10万石と、決して少ないものではありませんでしたが、その領地のうち、広範囲を農耕に不向きな低湿地帯が占めており、実質的な石高はそれを大きく下回るものでした。 しかしこうした劣悪な状況ゆえに、歴代藩主たちは積極的に福島潟干拓などの新田開発を行い、後年、その成果が実る形で、当時は日本有数の豊かな穀倉地帯へと成長し、その実高は30万とも40万とも言われ、同藩が繁栄する基盤となりました。
10代藩主、直諒(なおあき)は嘉永3(1850)年に「報国説」を著して尊王攘夷論を唱えました。 戊辰戦争の際には新政府方への恭順を試みるも、周囲の諸藩が奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への加盟を強硬に迫ったため、やむを得ず加盟することになりました。 しかし、領民が新政府を支持し、居之隊(きょしたい)、正気隊(せいきたい)、北辰隊(ほくしんたい)などの農民隊を組織して官軍を支援したこともあり、やがては新政府方に恭順し、その後は新政府方として参戦して幕府方と交戦しました。
初代秀勝から12代直正(なおまさ)まで取り潰しにあうことなく、溝口氏のみの支配が274年間続き、明治4(1871)年に廃藩置県を迎え、同年11月に新発田県に編入されました。
この十文字槍の持ち主の経歴が興味深いので下記に記します。
【佐治爲矩】
佐治爲矩(さじ-ためかね?ためのり?)は元治元(1864)年に結成された、新発田藩の鉄砲隊「銃隊組」の隊長の佐治孫兵衛(さじ-まごべえ)として知られる藩臣です。 「佐治孫兵衛為矩」の署名が入った古文書を新潟県立文書館と板橋区立郷土資料館とが収蔵していること、溝口直諒の記した「鋳?(ちゅうほう)意見書」の「佐治爲短孫大夫」に関する記述と新発田藩の公式記録「歴代廟記(れきだいびょうき)」の「佐治孫大夫」に関する記録が一致することから佐治為矩と佐治孫兵衛が同一人物であることが判ります。
和流砲術の師範だった佐治孫兵衛は嘉永4(1851)年に堀一藤次と共に江戸へ赴き、江戸川英龍(えどがわ-ひでたつ)門徒から高島流砲術を伝授されました。 嘉永4(1853)年に免許皆伝となり新発田藩に戻ってからは西洋砲術の指導に当たり、後の戊辰戦争でも銃隊を率いて出陣しました。
新潟に所縁のある品です。 新潟にお住まいの方、いかがでしょうか。
令和2年9月19日に東京都によって交付された銃砲刀剣類登録証、時代白鞘(柄)、穂鞘付きです。 時代白鞘には「安政五午年五月」「幕府士川井久幸七十三歳作」と墨書きがあります。 穂鞘は本品に合わせて後の時代に作られたもです。
刃長(はちょう):約180mm、刃幅(ははば):約222mm、茎長:約350mm、元幅(もとはば):約250mm、目釘穴:2個
一部に朽込錆があります。
状態は現物を見てご確認されることをおすすめします。
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