国名:日本
種類:中筒/大筒

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火縄銃 荻野流八匁堺中筒 「三ツ蔓紋」「雲龍図」「三ツ葉葵紋」 (在銘:摂州住 井上関右衛門作 壽次 [花押])(京)

¥605,000
商品番号
8482
発売日
2024/08/11
取扱店舗
東京店
在庫
1
英名
Japanese Large-caliber Matchlock Gun
国名
日本
全長
1,095mm
口径
17mm(実測17,4mm)
【火縄銃 荻野流八匁堺中筒 「雲龍図」「三ツ蔓紋」「三ツ葉葵紋」(在銘:摂州住 井上関右衛門作 壽次 [花押])について】
本品は口径が実測17.4mmの八匁、全長が約109,5cm、重量約7,2kgの中筒サイズの火縄銃で、抱きかかえるようにして射撃をしたと思われます。 軍用の中筒は6匁筒 (15,8mm)~10匁筒 (18,7mm) 前後で、それ以上は大筒と呼ばれる事もあります。 大筒の定義は定かではありませんが、抱えて射撃の不可能な50匁筒 (33mm) 以上の品を通常は大筒と呼ぶようです。

本品の筒 (銃身) は後方に向かってやや広がった丸銃身で、その上面だけを平らにした「表一角」と呼ばれる形です。 銃身前部の最も細い部分の外径は約29,7mmで後部の最も太い部分の外径は約44,1mmになっています。 銃口部には立派な八角柑子が設けられ、その後ろに幅広の玉縁と呼ばれる環を配しています。 目当は片杉形の先目当に加えて、元目当及び中目当が設けられています。 中目当は遠距離射撃用に設けられたものです。 尚、中目当と元目当はいずれも千切透しとなっています。 銃身は台 (銃床) に対して3か所の目釘により固定される構造となっています。

本品の銃身には「摂?判三羮經惘R厂膾醴莠? (花押)」と銘が切ってあり、「井上関右衛門作壽次」は「全国鉄砲鍛冶銘鑑」P.31-32及び「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」P.196-197に掲載されている摂州住の鉄砲鍛冶の一門です。 本品はその中でも名人と呼ばれ、「井上家」の最後を飾った十代目井上関右衛門壽次 (ひさつぐ) 作です。

銃身上面には二匹の龍と雲の「雲龍図」、「三ツ葉葵紋」2箇所の彫刻に加えて、「蔓紋」と思われる家紋が時代感ある銀象嵌により入っています。 尚、「雲龍図」と「葵紋」の1つは彫刻途中と思われますので、お値打ち価格に設定してあります。 銃本体は江戸時代後期の優作です。カラクリは蟹目内カラクリで、カラクリの地板金や胴金、火蓋は真鍮製となっています。 引金には用心金はなく、引金後方にはナマコ金が設けられています。 火挟は鍛鉄製となっています。

【鉄砲鍛冶「井上関右衛門家」について】
堺には堺五 (鉄砲) 鍛冶と呼ばれる鉄砲鍛冶の名家が五家存在し、その一番は「榎並屋勘左衛門家」で、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用されていました。 二番手は「芝辻理右衛門家」、こちらも「榎並屋勘左衛門家」と共に鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。 この両家に分家の「榎並屋九兵衛 (次右衛門)」、「榎並屋勘七 (忠兵衛)」、「芝辻長左衛門」を加えた「年寄」と呼ばれた五鍛冶が平鍛冶と呼ばれた他の鉄砲鍛冶を統制しました (後に榎並屋勘七家と榎並屋九兵衛家が脱落し三鍛冶となる)。 この「年寄」制度は海外のギルド制度と似た「職業別組合」であり、「年寄」は「組合役員」、「平鍛冶」は下請けなどを行う「組合員」でした。 しかしながら、この五鍛冶 (五人衆とも呼ばれた) は幕府御用鍛冶の代表格ではありましたが、国友の「鉄砲年寄」ほどの特権は有していませんでした。 それが後に平鍛冶であった「井上関右衛門」家が台頭する切っ掛けとなりました。
「井上関右衛門」は現在では堺の鉄砲鍛冶の代表として有名ですが、伊予大洲から初代井上関右衛門八兵衛【寛文十年 (1670年) 七月十七日没】が堺に移ったのは1600年中頃で、まだ無名の一平鍛冶でした。 大坂の陣 (1617年) の後、伊予大洲藩6万石の二代目の加藤泰興公に「井上関右衛門」の名前を賜り、当時の鉄砲の都「堺」に移り住みました。 その後、二百年の太平の世で鉄砲鍛冶にとっては苦難の時代が到来しました。 また、幕末には西洋銃の輸入/模倣製造と火縄銃製造産業に大きな分岐点が訪れました。 多くの鉄砲鍛冶が西洋銃の模倣製造を行ったのに対して、「井上関右衛門家」は火縄銃の製作に拘り続けました。 堺の鉄砲鍛冶として明治期までゲベール銃ではなく火縄銃の製作を行っていたのは「井上関右衛門家」だけであったと言われています。 幕末に「芝辻家」及び「榎並屋家」がいち早くゲベール銃の製作を始めたのは有名で、新技術の習得に務め、単なる模倣に留まらず独自の進歩も遂げ、火縄銃の道は途絶えても明治初期までは堺の鉄砲鍛冶は生き残っていました。 「井上家」ではゲベール銃 (洋式銃) は作らなかったと言われているにもかかわらず、明治中期まで存続したのは驚きです。 明治25年に開催された勧業博覧会において、当時の陸軍大臣大山巌に「井上関右衛門家」が送ったとされている銃はどのような品であったか興味が湧きます。 堺に移ってからの二百年の間に堺一とも言える鉄砲鍛冶となった井上家には様々な歴史的財産が残されています。
その一つとして、現在でも堺市指定有形文化財として井上関右衛門居宅 (作業場や店舗を始め座敷棟、道具蔵、俵倉、附属棟等) が「鉄砲鍛冶屋敷」が残っています。 当時の大きな鉄砲鍛冶は、作業場 (工房) の横に店舗を構えて製造と販売を同時に行っていた「堺商人」の逞しさが窺えます。 「元禄二年 (1689年) 堺大絵図」にも井上関右衛門の屋敷が同じ場所にあった記載がみられます。 その敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「西六間筋」までを一区画とする広大なものです。
江戸時代末期には火縄銃の需要が激減する中、最後の名人と言われた十代目関右衛門寿次 (ひさつぐ) が伊予大洲藩お抱え鉄砲鍛冶を始め、会津から薩摩まで六十余藩に出入りする日本有数の鉄砲鍛冶となっていました。 また、2019年に井上家の蔵から274点もの古文書が発見されました。 「元請け」の井上関右衛門と金属部品等を製造する下請け職人との間で交わされた納品台帳等で、当時の鉄砲製造が分業制だった事が裏付けられる一級の資料となっています。 井上家は鍛冶年寄ではありませんでしたが、町の有力者である町年寄を勤めました。
「つーる・ど・堺」の雑記帳に鉄砲鍛冶屋敷の現当主である井上修一さんと、弟の井上俊二さんから井上家のルーツをレポートした興味深い記述があります。
「古文書によると、井上家は安土桃山時代に甲斐24万石を治めた加藤家に、(井上家は) その頃から仕えていたようです。 加藤家が、伯耆米子藩6万石を経て、江戸になって伊予大洲藩6万石に落ち着くと、2代目の加藤泰興 (やすおき) 公がやり手で非常に人材登用をやったんです。 大坂の陣の浪人たちなど、一芸に秀でたものを召し抱えました。その時に (祖先は)、お殿様から関右衛門という名を賜りました」
なぜ、関右衛門と名乗ったかという記録も残っていました。
「せっかちだったので関右衛門と、これも古文書に書いてありました」
井上関右衛門の待遇は、5人扶持で羽織袴に大小の刀という武士の扱いでした。
「5人扶持というお給料は、藩お抱えの鉄砲鍛冶としては相場でしたが、武士扱いというのは他では聞いたことがないような待遇です」
それだけ初代井上関右衛門には才覚があったということなのでしょう。
島原の乱終結後 (1638年) は戦乱も無く、時代と共に鉄砲の需要は減っていきます。 元禄9年 (1696年)の記録によると、堺の鉄砲鍛冶は54軒で100人前後が従事していましたが、次第に数を減らしていきます。
不景気もあって、5人扶持だった井上家の待遇も18世紀後半には3人扶持にまで減らされたりしています。 しかし、井上家は消滅しませんでした。
江戸時代後期になって、井上家は一気に飛躍します。
「増減はありましたが江戸時代の308藩のうち、240藩に堺の鉄砲鍛冶が出入りしていました。 井上家は大洲藩お抱えでしたが、他藩からも仕事を受けており、江戸時代中期には20藩程度とのお付き合いだったのが、後期の天保13年 (1842年) には60藩もの大名と取引するようになっていました。 これは堺でもナンバー1の数です」
堺で一番ということは、もちろん全国でも一番です。
鉄砲鍛冶の多くが廃業していく中、どうして井上家が日本一の鉄砲鍛冶になったのか。
いくつか理由はありますが、最大の理由は十代目井上関右衛門 壽(寿)次 (ひさつぐ) の存在にあるようです。
父宗次の早世によって、寿次が関右衛門の名を継いだのは2才の時、家督を相続したのは5才の時でした。 壽次は、若くして苦労したからか、なかなかの人物だったようです。」

(以上現井上家当主さんならではの貴重なお話を引用させて頂きました)。(KK)(MM)

【本個体の説明】
本品の筒(銃身)を含む鉄部は黒錆に覆われていますが、これは当時の日本における防錆方法であった錆付けによるもので、欧米のようにブルー仕上げがなかった日本では一般的なものでした。 銃身はやや朽ち込み痕等が見られるものの、大きな欠損等は見られず、しっかりとした状態が保たれています。 銃身下部の目釘金具と目釘穴の位置は三箇所とも一致しています。 尚、目釘は付属致しません。 樫材と思われる台 (銃床) 部分は、やや打ち傷や線傷、銃床側面や胴金後方の一部に木部の割れの補修痕が見られますが、現状強度的には比較的しっかりとした状態が保たれています。 目釘孔周辺や台尻後端の木部に僅かに欠けが見られます。 カラクリの地板金や胴金、ナマコ金といった真鍮製の金具についても適度な時代感が付いた良い雰囲気となっています。 ナマコ金とは中筒以上の大口径火縄銃の引き金の後ろに付く真鍮製の補強金具です。 その形からナマコ金と呼ばれていますが、力金とも言います。 これらの大口径銃は士筒とも呼ばれた特注品で、装飾的な意味合いでもこのナマコ金が特徴とも言えます。
カラクリの作動については完全で、火挟を起こした状態でしっかりとロックがかかり、引金を引くと火挟が力強く落ちます。 銃身内は銃口から銃身後部まで抜けて(通って)おり、火穴も抜けています。 尚、尾栓はスムーズに取り外しが可能です。 火蓋の開閉についても問題なく行う事が可能です。 木製のかるか (さく杖) が付属致します。 (KK)

【その他の情報】
平成7年9月28日に大阪府教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証が付いた完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。

古式銃は約150年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、詳細画像を十分ご確認いただいた上でご注文ください。


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