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プロイセン王国 ドライゼ M1857 騎兵銃 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、#758) |
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価格(税込)
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登録証訂正終了まで非売品 \7,700,000 |
商品番号
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【9581】 |
英 名
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Prussian M1857 Dreyse Carbine、8th Hussar Regiment marking |
種 類
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古式銃(登録証付)、ボルト・アクション、Curio Magazine 広告掲載品、✕、松本零士先生旧蔵品 |
国 名
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帝政ドイツ |
時 代
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第一次大戦前(〜1914) |
全 長
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810mm |
口 径
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15.4mm |
装 弾
数
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単発 |
在 庫
数
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登録証訂正終了まで非売品 |
画像について
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画像は現物です。 |
コメント
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【ドライゼ M1857 騎兵銃について】
ヨハン・ニコラウス・ドライゼ (Johann Nikolaus Dreyse) が1836年に開発したニードル・ファイア式と呼ばれる撃発機構を備えた、ボルト・アクション式騎兵銃で、日本唯一の品と思われます。
ドライゼは1824年にプロイセンのゼンマーダー (Sömmerda) で雷管製造工場を設立しましたが、この頃からドライゼは、弾丸と火薬だけでなく、雷管も内蔵した一体型の紙製薬莢の開発を始めました。 この新型の一体型紙製薬莢では、雷管は装薬の前方、弾丸底部に配置されており、弾丸の底部が雷管を撃発する際の台座の役割を果たしました。 さらに、ドライゼはコイル・スプリングによって前進する長い針状の撃針を開発し、これが実質的に世界初となる量産された撃針となりました。 当初、ドライゼはこれらの新技術を前装式銃に適用しましたが、これは従来の雷管式前装銃と比べて大きな利点を持つものではありませんでした。 そこで彼はこれらの新技術をフォーセット式と呼ばれる後装式銃に応用しましたが、小型レバーによって作動する薬室の構造上、威力は低いものに留まりました。 1836年にドライゼは自身の開発した弾薬とニードル・ファイア式撃発機構を、ボルト・アクション式の新型後装式小銃に組み込みました。 この革新的な設計により、装填速度が大幅に向上し、兵士が伏せた状態や騎乗した状態でも容易に装填できるようになりました。 さらに、ボルト・アクション方式を採用したことで、フォーセット式よりも大型で強力な弾薬を使用することが可能となりました。 ドライゼはこの設計をプロイセン軍に提出し、1840年12月に正式採用されました。
ドライゼ小銃は1841年に新型の歩兵銃としてM1841 軽歩兵銃 (Leichte Perscussions-Gewehr M1841) の名称が与えられましたが、この名称は、この銃の革新性を秘匿する為のものでした。 その後、1855年までにニードル・ガンを意味するツュントナーデルゲヴェーア (Zündnadelgewehr) という名称がプロイセン軍内で一般的になりました。 ドライゼ小銃は口径15,4mm (約.61口径) の単発ボルト・アクション式後装銃で、1分間に10から12発の射撃が可能であり、当時としては驚異的な発射速度を誇りました。 射程は約550mと、19世紀半ばの前装式ライフルド・マスケットの最大射程には及びませんでしたが、高い発射速度により、その欠点を補って余りあるものでした。 ドライゼ小銃の射程が劣っていた理由としては、閉鎖機構の気密性が低く、発射ガスの漏れが生じた事が挙げられます。 また、紙製薬莢の奥深くに雷管が配置されていたため、非常に長い撃針が必要であり、これが破損しやすいという欠点もありました。 そのため、兵士たちは予備の撃針を携行し、現場でボルトを分解して撃針を交換する技術を習得する必要がありました。
1850年代半ばに騎兵用にドライゼ小銃が改良されました。騎兵の機動性にドライゼの速射性と馬上での操作性を融合させた画期的な試みでした。 全長が長い歩兵銃では馬上での操作性に支障をきたすので銃身をcmに短縮し機関部も小型化し騎兵が馬上で操作するのを可能としました。 1855年にツンドナーデルカラビナーM/55(Zündnadelkarabiner M/55)が採用され、その改良型が2年後の1857年に鋳鋼製の銃身を採用したツンドナーデルカラビナーM/57(Zündnadelkarabiner M/57)が採用されドライゼ騎兵銃の完成形となりました。 当時はドライゼ騎兵銃は他の多くの施条付き前装式騎兵銃に比べ弾道効率は高くありませんでしたが、その利点の方が遥かに優っていました。どの姿勢でも装填でき、特に馬上では容易かつ迅速に射撃できました。また、薬莢自体が完成しているため、別途点火装置を必要としませんでした。馬上で弾丸や装薬が落下する恐れもなく、装填したまま携行できるようになったのは画期的な進歩と言えます。
外見上の特徴はコンパクトさだけではなくトリガー・ガードの後ろには2組の吊鐶(リング)があり、騎兵がストラップで下げるのに便利な付属品が付いていました。フロント・サイトはノーズキャップを兼ねたサイト・プロテクターで丈夫に保護されていました。リア・サイトはシンプルなフリップ式(起倒式)で、200シュリット(約140m)と350シュリット(約250m)の目盛りが付いたリーフで構成されていました。1シュリットはプロイセンの単位で、約0.73〜0.74メートルに相当します。銃床はドイツ・ブナ材を使用した銃口部まで伸びたフル・ストックになっています。
M1857騎兵銃の最初の支給は1859年で、当初は1個騎兵中隊あたり16名の騎兵に新型銃が支給されました。当時プロイセン王国では騎兵銃は斥候部隊の防御兵器として支給されており、槍騎兵連隊および胸甲騎兵(重騎兵)連隊は伝統的な攻撃兵器である槍とサーベルで突撃するスタイルを続けていました。 そのためM1857騎兵銃は支給されず、代わりに防御兵器として旧式化したM-1850およびM-1823滑腔拳銃が支給されました。
【本個体の説明】
白磨き仕上げに多少の曇りと木製銃床の僅かな小傷が散見されますが、希少価値から考えると最高レベルの状態です。ネジの一本までシリアル No.はオールマッチの非常にオリジナル性の高い品です。1860年Sömmerda工場製です。全てにおいて文句なしの逸品です。
機関部左側面後方には「Mod: 57」のモデル名刻印が入っています。 また、その上にはドライゼ社のゼンマーダー工場製を表す「Soemmerda」及びNikolaus von Dreyseを表す「ND」の刻印が確認出来ます。機関部左側面後方製造年を示す「1860」及びシリアルNo.758が打刻されています。銃身基部上面には「Stahl」の刻印の他、王冠とFriedrich WIlhelmを示す「W」を組み合わせたプロイセンの刻印が銃床とバット・プレート、トリガー・ガードに確認出来ます。銃身後部右側面に5箇所、レシーバー前方右側面に3箇所、ボルト・ハンドルの根元に2箇所、トリガー・ガード基部など、主用な全ての部品にプロイセン王国の検査刻印が入っています。
本品は1861年にプロイセン王国第8軽騎兵連隊第4中隊の99番目の銃として支給された事を意味する“H.8 / 4.99 / 1861”の刻印がバットプレート上部に打刻されています。ドライゼ M1857 騎兵銃はプロイセン王国の機動力重視であった斥候任務を主とした竜騎兵(Dragoon)、軽騎兵連隊(Hussar)に装備されました。プロイセン王国第8軽騎兵連隊はプロイセン王国の中の第一ヴェストファーレン軽騎兵連隊(1st Westphalian)でもありました。 ヴェストファーレンは、ドイツのドルトムント、ミュンスター、ビーレフェルト、オスナブリュックを中心とした地域です。
竜騎兵連隊および軽騎兵連隊には、騎兵がサーベルを用いた伝統的なヨーロッパ式の攻撃を行うことが期待されていたため、カービン銃は装備せずに2挺の単発拳銃を装備しました。
澤田平氏著「日本の古銃」のカラー・ページとP.215に掲載されている品と同一品です。
本品は漫画家の松本零士先生のコレクションの中の一挺です。流石、日本一のコレクターの旧蔵品と言える品です。
【その他の情報】
県教育委員会で交付された銃砲刀剣類登録証が付いた、可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。 漫画家の松本零士先生の旧蔵品です。 登録証に誤りがあったので再審査で訂正済です。 現在は新しい登録証の到着待ちです。
古式銃は約150年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクの詳細画像 (Detailed Photos) を十分ご確認いただいた上でご注文ください。 詳しくは本HPのメニュー・バーにある「Ordering Terms (ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。
詳細画像(Detailed Photos)はこちら
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