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火縄銃 伊予三匁細筒 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、在銘: 摂州住井上関右衛門作) (西)㊱ |
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価格(税込)
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\198,000 |
商品番号
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【8779】 |
英 名
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Japanese Matchlock Musket, IYO Style |
種 類
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古式銃(登録証付)、単発、大阪店在庫品 |
国 名
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日本 |
時 代
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第一次大戦前(〜1914) |
全 長
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1,246mm |
口 径
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12mm |
装 弾
数
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単発 |
在 庫
数
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限定1品 |
画像について
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画像は現物です。 |
コメント
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【火縄銃 伊予三匁細筒 (在銘: 摂州住井上関右衛門作)について】
本品は伊予大洲藩お抱え鉄砲鍛冶の「井上関右衛門」の在銘品です。 口径が約13mm (約ニ匁半) ほどの細筒 (小筒) と呼ばれる狩猟用、または標的射撃用の火縄銃です。 全長は1,245mmで一般的な火縄銃の細筒としてはやや短めのサイズとなっていますが、本品は重量が2.8kgもある伊予細筒としては大振りで重たい銃になります。
「井上関右衛門」は初代より十代まで井上関右衛門を襲名しており、本品が一門のどの人物により製作されたかについてはこの銘だけでは特定できません。
「井上関右衛門」は現在では堺の鉄砲鍛冶の代表として有名ですが、伊予大洲から初代「井上関右衛門八兵衛が堺に移ったのは1600年中頃で、まだ無名の一平鍛冶でした。 大坂の陣の後、伊予大洲藩6万石の二代目の加藤泰興公に「井上関右衛門」の名前を賜り、当時の鉄砲の都「堺」に移り住みました。
本品の筒(銃身)は、後方に向かってやや広がった形状の八角銃身で、銃口部には柑子は設けられていません。 先目当はタンケン形、元目当は筋割となっています。 銃身は台木 (銃床) に対して4箇所の目釘により固定される構造となっており、目釘穴を補強する金具 (目釘座) が真鍮製の小さな輪になっているのも伊予筒の特徴です。 台木は全体に細身な作りとなっており、台カブ部の張り出しも小さいものとなっており紀州筒に近い作りになっています。 しかしながら紀州筒は台カブ中央に地板上方から続く鎬に対して、伊予筒は鎬を立てておらず、台カブ後部上方が冠落としになっています。 また紀州筒より台下カブ全体が薄くなっているのも特徴です。 摂州で作られた品でありながら、堺筒とは違い飾り板や各部の彫刻などは殆ど施されておらず、銃床の目釘座と同じくカラクリの鋲裏座金や「火縄消しの穴」についても円形のシンプルな真鍮金具が用いられています。 カラクリは外カラクリ (平カラクリ) で、カラクリの地板や火挟、弾金、雨覆、火蓋といった主要な部品は全て真鍮製となっています。 引金は輪引金 (透かし舌形) となっており、用心金は設けられていません。また胴金も幅広のものが多い堺筒に対して、摂州堺の鉄砲鍛冶「井上関右衛門」の伊予筒の胴金は細めの形状となっています。(MM)
【鉄砲鍛冶「井上関右衛門家」について】
堺には堺五(鉄砲)鍛冶と呼ばれる鉄砲鍛冶の名家が五家存在し、その一番は「榎並屋勘左衛門家」で、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用されていました。 二番手は「芝辻理右衛門家」、こちらも「榎並屋勘左衛門家」と共に鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。 この両家に分家の「榎並屋九兵衛(次右衛門)」、「榎並屋勘七 (忠兵衛)」、「芝辻長左衛門」を加えた「年寄」と呼ばれた五鍛冶が平鍛冶と呼ばれた他の鉄砲鍛冶を統制しました (後に榎並屋勘七家と榎並屋九兵衛家が脱落し三鍛冶となる)。 この「年寄」制度は海外のギルド制度と似た「職業別組合」であり、「年寄」は「組合役員」、「平鍛冶」は下請けなどを行う「組合員」でした。 しかしながら、この五鍛冶 (五人衆とも呼ばれた) は幕府御用鍛冶の代表格ではありましたが、国友の「鉄砲年寄」ほどの特権は有していませんでした。 それが後に平鍛冶であった「井上関右衛門」家が台頭する切っ掛けとなりました。
「井上関右衛門」は現在では堺の鉄砲鍛冶の代表として有名ですが、伊予大洲から初代井上関右衛門八兵衛【寛文十年 (1670年) 七月十七日没】が堺に移ったのは1600年中頃で、まだ無名の一平鍛冶でした。 大坂の陣 (1617年) の後、伊予大洲藩6万石の二代目の加藤泰興公に「井上関右衛門」の名前を賜り、当時の鉄砲の都「堺」に移り住みました。 その後、二百年の太平の世で鉄砲鍛冶にとっては苦難の時代が到来しました。 また、幕末には西洋銃の輸入/模倣製造と火縄銃製造産業に大きな分岐点が訪れました。 多くの鉄砲鍛冶が西洋銃の模倣製造を行ったのに対して、「井上関右衛門家」は火縄銃の製作に拘り続けました。 堺の鉄砲鍛冶として明治期までゲベール銃ではなく火縄銃の製作を行っていたのは「井上関右衛門家」だけであったと言われています。 幕末に「芝辻家」及び「榎並屋家」がいち早くゲベール銃の製作を始めたのは有名で、新技術の習得に務め、単なる模倣に留まらず独自の進歩も遂げ、火縄銃の道は途絶えても明治初期までは堺の鉄砲鍛冶は生き残っていました。 「井上家」ではゲベール銃 (洋式銃) は作らなかったと言われているにもかかわらず、明治中期まで存続したのは驚きです。 明治25年に開催された勧業博覧会において、当時の陸軍大臣大山巌に「井上関右衛門家」が送ったとされている銃はどのような品であったか興味が湧きます。 堺に移ってからの二百年の間に堺一とも言える鉄砲鍛冶となった井上家には様々な歴史的財産が残されています。
その一つとして、現在でも堺市指定有形文化財として井上関右衛門居宅 (作業場や店舗を始め座敷棟、道具蔵、俵倉、附属棟等) が「鉄砲鍛冶屋敷」が残っています。 当時の大きな鉄砲鍛冶は、作業場(工房)の横に店舗を構えて製造と販売を同時に行っていた「堺商人」の逞しさが窺えます。 「元禄二年(1689年)堺大絵図」にも井上関右衛門の屋敷が同じ場所にあった記載がみられます。 その敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「西六間筋」までを一区画とする広大なものです。
江戸時代末期には火縄銃の需要が激減する中、最後の名人と言われた十代目関右衛門寿次(ひさつぐ)が伊予大洲藩お抱え鉄砲鍛冶を始め、会津から薩摩まで六十余藩に出入りする日本有数の鉄砲鍛冶となっていました。 また、2019年に井上家の蔵から274点もの古文書が発見されました。 「元請け」の井上関右衛門と金属部品等を製造する下請け職人との間で交わされた納品台帳等で、当時の鉄砲製造が分業制だった事が裏付けられる一級の資料となっています。 井上家は鍛冶年寄ではありませんでしたが、町の有力者である町年寄を勤めました。
「つーる・ど・堺」の雑記帳に鉄砲鍛冶屋敷の現当主である井上修一さんと、弟の井上俊二さんから井上家のルーツをレポートした興味深い記述があります。
「古文書によると、井上家は安土桃山時代に甲斐24万石を治めた加藤家に(井上家は)その頃から仕えていたようです。 加藤家が、伯耆米子藩6万石を経て、江戸になって伊予大洲藩6万石に落ち着くと、2代目の加藤泰興(やすおき)公がやり手で非常に人材登用をやったんです。 大坂の陣の浪人たちなど、一芸に秀でたものを召し抱えました。その時に(祖先は)、お殿様から関右衛門という名を賜りました」
なぜ、関右衛門と名乗ったかという記録も残っていました。
「せっかちだったので関右衛門と、これも古文書に書いてありました」
井上関右衛門の待遇は、5人扶持で羽織袴に大小の刀という武士の扱いでした。
「5人扶持というお給料は、藩お抱えの鉄砲鍛冶としては相場でしたが、武士扱いというのは他では聞いたことがないような待遇です」
それだけ初代井上関右衛門には才覚があったということなのでしょう。
島原の乱終結後 (1638年) は戦乱も無く、時代と共に鉄砲の需要は減っていきます。 元禄9年 (1696年) の記録によると、堺の鉄砲鍛冶は54軒で100人前後が従事していましたが、次第に数を減らしていきます。
不景気もあって、5人扶持だった井上家の待遇も18世紀後半には3人扶持にまで減らされたりしています。 しかし、井上家は消滅しませんでした。
江戸時代後期になって、井上家は一気に飛躍します。
「増減はありましたが江戸時代の308藩のうち、240藩に堺の鉄砲鍛冶が出入りしていました。 井上家は大洲藩お抱えでしたが、他藩からも仕事を受けており、江戸時代中期には20藩程度とのお付き合いだったのが、後期の天保13年(1842年)には60藩もの大名と取引するようになっていました。 これは堺でもナンバー1の数です」
堺で一番ということは、もちろん全国でも一番です。
鉄砲鍛冶の多くが廃業していく中、どうして井上家が日本一の鉄砲鍛冶になったのか。
いくつか理由はありますが、最大の理由は十代目井上関右衛門 寿次(ひさつぐ)の存在にあるようです。
父宗次の早世によって、寿次が関右衛門の名を継いだのは2才の時、家督を相続したのは5才の時でした。 寿次は、若くして苦労したからか、なかなかの人物だったようです。」
(以上現井上家当主さんならではの貴重なお話を引用させて頂きました)。
「井上関右衛門」は「全国鉄砲鍛冶銘鑑」P. 〇〇-〇〇及び「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」P. 〇〇に摂州住として掲載されています。
「井上関右衛門家」本家、分家には「作寿」「重行」「重次」「主福」「高次」「為次(享保三年)」「富次」「直次」「寿以(天保十年)」「寿秀」「寿正」「忠次」「長次」「秀次」「吉次」などの鍛冶がいました。
【本個体の説明】
本品の筒 (銃身) を含む鉄部はブラウン・パティーナと呼ばれる茶系の黒錆に覆われていますが、これは当時の日本における防錆方法であった錆付けの上に近年仕上げ直しをしてあります。 銃身は均一に当時からの黒錆で覆われており、大きな欠損等は見受けられず、しっかりとした状態が保たれています。 銃身下部の目釘金具と銃床の目釘穴の位置は4ヵ所とも一致しています。 尚、目釘は付属致しません。 台 (銃床) についても全体に打ち傷や線傷は殆ど見られず、非常に状態の良い品です。
カラクリの地板や弾金、火挟、雨覆、楔、火蓋といった真鍮部分については、一度は磨かれているものの、ようやく時代感が付いてきた良い雰囲気となりつつあります。 カラクリの作動については完全で、火挟を起こした際のロックはしっかりと掛かり、火挟が起きた状態で引金を引くと、火挟がスムーズに落ちます。 引金は舌形の透かし型になっています。 銃身内は銃口から銃身後部まで抜けて (通って) おり、火穴も抜けています。 尾栓についてもスムーズに取り外す事が可能です。 木製のカルカ (さく杖) が付属致します。
火縄銃の生産地として名高い摂州堺で作られ装飾が多い筒のイメージですが、本品は典型的な伊予筒です。 本品は伊予筒の掟に完全に則った品です。 (MM)
【登録証情報】
(種別: 火縄式銃砲、全長: 124.6cm、銃身長91.8cm、口径1.2cm、銘文: 摂州住井上関右衛門作)
【その他の情報】
昭和54年7月4日(平成5年5月31日再交付)に神奈川県教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証が付いた、完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。
古式銃は約160年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクの詳細画像 (Detailed Photos) を十分ご確認いただいた上でご注文ください。 詳しくは本HPのメニュー・バーにある「Ordering Terms (ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。
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