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【TK2635S/D】一貫斎型軍用気砲 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、無銘) |
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価格(税込)
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SOLD OUT |
商品番号
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【8647】 |
英 名
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Japanese made ”Ikkansai-style Kihou” Military Airgun |
種 類
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古式銃(登録証付)、単発、登録証付古式銃買取品、【TK】 |
国 名
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日本 |
時 代
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第一次大戦前(〜1914) |
全 長
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1,398mm |
口 径
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15mm |
装 弾
数
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単発 |
在 庫
数
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SOLD OUT |
画像について
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画像は現物とは異なります。 |
コメント
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文政三年(1820年)に気砲製作の禁止令を受けたため、
【一貫斎型軍用気砲 (無銘)について】
本品は一貫斎型の機構を持つ口径が五匁(15mm)の軍用気砲です。 全長が1,398mm、銃身長 が940mmと非常にガッチリとした如何にも軍用筒と言える作りです。 気砲は比較的軽量ですが本品はずっしりと重い重量感がある品です。 これは銃床内の空気を貯めるボンベが気砲としては大口径の弾を発射する為に、かなり高圧の圧縮空気を貯められるように頑丈にしてあるからと思います。 前半分は國友系の火縄銃に良く見られる形状です。 本品の銃身は八角銃身で、台木 (銃床) に隠れていない銃身上部には筋立てが施されています。 銃口部には筋立ての施された芥子柑子が設けられています。 芥子柑子とは、ケシの花が開花する前にプックリと膨らんだ形状から名付けられました。 本品は 芥子柑子のバリエーションの一つで比較的長細いどちらかと言えばラッキョウに近い形をしています。 先目当はたんけん形、元目当は筋割のバリエーションとなっています。 火縄銃と同じ材質の銃床の前後(前部は矢袋金具)は真鍮製の金具で補強されています。 銃口に近い矢袋金具は火縄銃と全く同じです。 機関部は真鍮製で一貫斎型になっています。 文献では本個体が国内唯一の軍用気砲として紹介されています。
本品は無銘ですが国友で作られた品と弊社では考えています。 本品の前所有者の著書では
「全長139.8cm、口径1.5cmで重量に富み、頑丈そのものである。 國友藤兵衛は気砲記序の中でオランダ製の気砲を評して『武用の備みならず、徒に小児のびに等し、実に不用の品なれども余これに工夫を加えれば武用万分の一にも補ひー』と自からは軍用気砲を意図して設計している。
しかし國友藤兵衛気砲も全長は長いものの、全体に華奢で堅牢さは認められず戦場で用いるには適していない。 現存する気砲の中では本銃のみが戦場での酷使に耐えうる強度を有している。
無銘であるが仙台筒の特徴が見られ、東北地方の堅実な銃工の製作と思える。」
とありますが、本品は仙台筒の特徴ではなく国友筒の特徴が見られます。 撃発機構も一貫斎型ですので国友で一貫斎の指導の下で作られた品ではないでしょうか。 「江戸時代の空気銃 気砲」P.100 書載品。
「気砲」の原型はオランダ製の銃工Scheiffel A. Graveが作った品で国友藤兵衛能当(一貫斎)が模作し、その後日本独特の進化を遂げました。 しかしながら当時でも非常に高度な技術を要した品で一般の鉄砲鍛冶には作ることは出来ず極少数の鉄砲鍛冶によって作られました。一貫斎の他に、摂州堺の鉄砲鍛冶 芝辻長左衛門保敬、信州松代藩の鉄砲鍛冶 片井京助直徹、信州松代藩の鉄砲鍛冶で発明家 佐野三郎常忠など銘がある気砲が現存しております。 本品の作者奥村菅次もその一人ですが、他の作者は皆が鉄砲鍛冶であるのに対して奥村菅次のみが金工師でした。気砲の国内現存数は、30挺以下で、殆どが靖國神社遊就館、東京国立博物館、香川県立博物館、国友鉄砲の里資料館、松浦史料博物館、トヨタコレクション、真田宝物館、神戸市立博物館、種子島総合開発センター鉄砲館、自衛隊武器学校など著名な博物館の収蔵品となっており、個人蒐集家の手元にある品は数丁と言われています。 常設展示をしている博物館(自衛隊武器学校は除く)無く、企画展若しくは特別展の際のみに展示されるほど希少な品です。 海外ではフランスのパリにあるMusee de l'Armee等にあります。
*国友藤兵衛能當(くにとも とうべえ よしまさ)一貫斎(いっかんさい)(1778〜1840年)
国友一貫斎は安永7年(1778)10月3日に、近江国坂田郡国友村(現在の長浜市国友町)の幕府御用鉄砲鍛冶職の家に生まれ、日本で初めて自作の反射望遠鏡を使って天体観測をおこなった人物として知られています。 9歳で父に代わって九代目藤兵衛と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。これをもとに、その解説書として『気砲記』を著し、
一貫斎は文化11年(1814)には、膳所藩に仕えた眼科医の山田大円より、オランダ渡りの空気銃の説明を受け、間もなくその模型の製作に成功していたと言われる。その後、江戸に出た一貫斎は、文政元年(1818年)10月5日に、同様に江戸に出ていた山田大円のところに壊れたまま放置されていた丹後峰山藩主京極高備から大円が借り受けたオランダ渡りの空気銃の修理を依頼され、短期間でそれを果している。一貫斎は作業に当たり、修理した空気銃の詳細なスケッチや記録を残しているが、その性能は彼にとって物足りないものであった。そこで、より性能が優れた空気銃を製作することを思いたったのである。
一貫斎は文政2年(1819年)11月1日より実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」製作が始め、翌年3月9日に京極高備へ納品された。一貫斎が考案した空気銃は、同時に気砲の使い方を解説した『気砲記』を著して後年に名を残しました。 後には20連発の早打気砲を完成させた。一貫斎は気砲の制作にあたって圧縮空気の原理を理解し、空気の重量を計測した。空気に重さがあることに日本で初めて気付いた人物とされる。
藤兵衛能當(一貫斎)在銘の気砲の現存品が少ないのは共作者がおり、その共作との合作では銘を切らなかったのではないでしょうか。 あくまでも本品の構造を見ての想像です。(MM)
【本個体の説明】
本品の筒 (銃身) を含む鉄部は黒錆に覆われていますが、これは当時の日本における防錆方法であった錆付けによるもので、欧米のようにブルー仕上げがなかった日本では一般的なものでした。 銃身全体的にやや表面錆痕や若干の朽ち込み等が見受けられるものの、大きな欠損等は見られません。 銃身下部の目釘金具と銃床の目釘穴の位置は3箇所とも一致しています。 尚、目釘は付属していません。 真鍮製の機関部は程良い時代がついており、鉄製の撃発機構に関係する部品は鉄製で銃身と同じような黒錆で覆われています。 銃床内の空気を貯めるボンベの表面は当初は革で覆われたと思いますが、新しく実物と同じで羊革で貼り直ししてあります。 ボンベと機関部のネジ山部分は後補が見受けられます。 後世の手直しが入った生気筒(ポンプ)付です。 「江戸時代の空気銃 気砲」P.100 書載品。
【その他の情報】
平成26年1月14日に京都府教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証が付いた完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。
古式銃は約150年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクの詳細画像 (Detailed Photos) を十分ご確認いただいた上でご注文ください。 詳しくは本HPのメニュー・バーにある「Ordering Terms (ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。
詳細画像(Detailed Photos)はこちら
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