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【TK2554S/D】火縄銃 堺軍用細筒 (登録証付、銀象嵌「二つ帆の丸紋」、在銘: 井上関右衛門作、「界縣」焼印入)  
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価格(税込)
 SOLD OUT
商品番号
 【7854】
英  名
 Japanese Matchlock Musket, SAKAI Style
種  類
 古式銃(登録証付)、単発、登録証付古式銃買取品、東京店在庫品
国  名
 日本
時  代
 第一次大戦前(〜1914)
全  長
 1,383mm
口  径
 9mm
装 弾 数
 単発
在 庫 数
 SOLD OUT
画像について
 画像は現物です。
コメント
 【火縄銃 堺軍用筒 (在銘: 井上関右衛門作、「界縣」焼印入) について】
本品は摂州堺で作られた全長1,383mmとやや長いサイズの軍用細筒で、口径は9mm (約一匁五分) と小口径の部類になっています。 本品のような口径が一匁五分ほどと小さい口径の軍用筒は通常の細筒とは別に分類したいと思います。 堺筒によく見られる装飾や用心金がなく、台かぶも伊予筒や紀州筒を思わせるようなシンプルですが全体的にしっかりとした作りが特徴です。 少なくとも規格化された量産品ではなく、何かしらの用途に応じて特別に注文された品と考えられます。 全体的に見ると伊予筒との共通点が多いですが、細部において伊予筒の掟とは違います。 しかしながら、「井上関右衛門」銘であることから伊予筒の影響を受けている事は間違いありません。
軍用と記しましたが、口径が大きく銃身の作りが簡易な番筒とは異なります。 一般的な番筒は主君が家臣の鉄砲隊に貸し与えた品で御貸し鉄砲とも言われます。 番筒は四匁五分から五匁くらいの比較的大きな口径で、通しの番号が入った品が多く、その事から番筒と呼ばれています。 本品は軍用思われますが、それと対照的な武士が持っていた品になっています。 吉岡新一著「古銃(河出書房新書刊)」のP.45に銃身長は多少異なりますが非常に似た「井上関右衛門」銘の品が掲載されています。 その品には為書き「天保七丙申年吉日 応岡部藤原元輝君求持筒拾掟」が入っており、天保七年(1836年)の年記から、少なくとも「井上関右衛門」の作としては (本品と同じ) この形状があった事が窺われます。
本品の銃身には「井上関右衛門作」と銘が切られています。 井上関右衛門は「全国鉄砲鍛冶銘鑑」P.31-32及び「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」P.196-197に掲載されている通り初代より十代まで井上関右衛門を襲名しており、本品が一門のどの人物により製作されたかについてはこの銘だけでは特定できません。 しかしながら、本品の作りから考えられる時代、そして出来の良さと銘の切り方から、名人と呼ばれた十代目井上関右衛門寿次 (ひさつぐ) の中期頃の作と映りました。
本品の筒(銃身)は八角銃身となっており、銃口部分には口径に対してやや大ぶりで上手に筋立された八角柑子が設けられています。 先目当は杉形、元目当は筋割となっています。 銃身と台 (銃床) は3ヵ所の目釘により固定される構造となっています。 カラクリは外カラクリ (外記カラクリ) で、カラクリの地板や弾金、火挟、雨覆、火蓋は真鍮製となっています。 火蓋のツマミには溝とボーダーが入った凝った作りになっています。 尚、引金には用心金は元々設けられていません。
本品は飾り金具で華やかに装飾された品が多い堺筒とは反対に、装飾性の少ない質実剛健な作りの品となっています。 台 (銃床) にも飾り金具は取り付けられておらず、筒 (銃身) に銀の平象嵌「二つ帆の丸紋」が配されており、武家の持ち物であったことが伺われます。 銃床の3ヵ所の目釘穴の金具であるシノギ目金具は小さな真鍮製の桜花で飾られています。 台かぶ左側面の鋲穴4ヵ所もシノギ目金具と同じ小さな真鍮製の桜花で飾られています。 火縄通しの穴 (ひなわとおしのあな) と火消壺 (ひけしつぼ) が台カブにあり、どちらの穴も真鍮製の輪で飾られています。 シンプルながらもガッチリとしているのが軍用筒の特徴となっています。 (MM)

【鉄砲鍛冶「井上関右衛門家」について】
堺には堺五(鉄砲)鍛冶と呼ばれる鉄砲鍛冶の名家が五家存在し、その一番は「榎並屋勘左衛門家」で、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用されていました。 二番手は「芝辻理右衛門家」、こちらも「榎並屋勘左衛門家」と共に鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。 この両家に分家の「榎並屋九兵衛 (次右衛門)」、「榎並屋勘七 (忠兵衛)」、「芝辻長左衛門」を加えた「年寄」と呼ばれた五鍛冶が平鍛冶と呼ばれた他の鉄砲鍛冶を統制しました (後に榎並屋勘七家と榎並屋九兵衛家が脱落し三鍛冶となる)。 この「年寄」制度は海外のギルド制度と似た「職業別組合」であり、「年寄」は「組合役員」、「平鍛冶」は下請けなどを行う「組合員」でした。 しかしながら、この五鍛冶 (五人衆とも呼ばれた) は幕府御用鍛冶の代表格ではありましたが、国友の「鉄砲年寄」ほどの特権は有していませんでした。 それが後に平鍛冶であった「井上関右衛門」家が台頭する切っ掛けとなりました。
「井上関右衛門」は現在では堺の鉄砲鍛冶の代表として有名ですが、伊予大洲から初代井上関右衛門八兵衛【寛文十年 (1670年) 七月十七日没】が堺に移ったのは1600年中頃で、まだ無名の一平鍛冶でした。 大坂の陣 (1617年) の後、伊予大洲藩6万石の二代目の加藤泰興公に「井上関右衛門」の名前を賜り、当時の鉄砲の都「堺」に移り住みました。 その後、二百年の太平の世で鉄砲鍛冶にとっては苦難の時代が到来しました。 また、幕末には西洋銃の輸入/模倣製造と火縄銃製造産業に大きな分岐点が訪れました。 多くの鉄砲鍛冶が西洋銃の模倣製造を行ったのに対して、「井上関右衛門家」は火縄銃の製作に拘り続けました。 堺の鉄砲鍛冶として明治期までゲベール銃ではなく火縄銃の製作を行っていたのは「井上関右衛門家」だけであったと言われています。 幕末に「芝辻家」及び「榎並屋家」がいち早くゲベール銃の製作を始めたのは有名で、新技術の習得に務め、単なる模倣に留まらず独自の進歩も遂げ、火縄銃の道は途絶えても明治初期までは堺の鉄砲鍛冶は生き残っていました。 「井上家」ではゲベール銃(洋式銃)は作らなかったと言われているにもかかわらず、明治中期まで存続したのは驚きです。 明治25年に開催された勧業博覧会において、当時の陸軍大臣大山巌に「井上関右衛門家」が送ったとされている銃はどのような品であったか興味が湧きます。 堺に移ってからの二百年の間に堺一とも言える鉄砲鍛冶となった井上家には様々な歴史的財産が残されています。
その一つとして、現在でも堺市指定有形文化財として井上関右衛門居宅 (作業場や店舗を始め座敷棟、道具蔵、俵倉、附属棟等) が「鉄砲鍛冶屋敷」が残っています。 当時の大きな鉄砲鍛冶は、作業場(工房)の横に店舗を構えて製造と販売を同時に行っていた「堺商人」の逞しさが窺えます。 「元禄二年(1689年)堺大絵図」にも井上関右衛門の屋敷が同じ場所にあった記載がみられます。 その敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「西六間筋」までを一区画とする広大なものです。
江戸時代末期には火縄銃の需要が激減する中、最後の名人と言われた十代目関右衛門寿次(ひさつぐ)が伊予大洲藩お抱え鉄砲鍛冶を始め、会津から薩摩まで六十余藩に出入りする日本有数の鉄砲鍛冶となっていました。 また、2019年に井上家の蔵から274点もの古文書が発見されました。 「元請け」の井上関右衛門と金属部品等を製造する下請け職人との間で交わされた納品台帳等で、当時の鉄砲製造が分業制だった事が裏付けられる一級の資料となっています。 井上家は鍛冶年寄ではありませんでしたが、町の有力者である町年寄を勤めました。
「つーる・ど・堺」の雑記帳に鉄砲鍛冶屋敷の現当主である井上修一さんと、弟の井上俊二さんから井上家のルーツをレポートした興味深い記述があります。
「古文書によると、井上家は安土桃山時代に甲斐24万石を治めた加藤家に(井上家は)その頃から仕えていたようです。 加藤家が、伯耆米子藩6万石を経て、江戸になって伊予大洲藩6万石に落ち着くと、2代目の加藤泰興(やすおき)公がやり手で非常に人材登用をやったんです。 大坂の陣の浪人たちなど、一芸に秀でたものを召し抱えました。その時に(祖先は)、お殿様から関右衛門という名を賜りました」
なぜ、関右衛門と名乗ったかという記録も残っていました。
「せっかちだったので関右衛門と、これも古文書に書いてありました」
井上関右衛門の待遇は、5人扶持で羽織袴に大小の刀という武士の扱いでした。
「5人扶持というお給料は、藩お抱えの鉄砲鍛冶としては相場でしたが、武士扱いというのは他では聞いたことがないような待遇です」
それだけ初代井上関右衛門には才覚があったということなのでしょう。
島原の乱終結後 (1638年) は戦乱も無く、時代と共に鉄砲の需要は減っていきます。 元禄9年 (1696年)の記録によると、堺の鉄砲鍛冶は54軒で100人前後が従事していましたが、次第に数を減らしていきます。
不景気もあって、5人扶持だった井上家の待遇も18世紀後半には3人扶持にまで減らされたりしています。 しかし、井上家は消滅しませんでした。
江戸時代後期になって、井上家は一気に飛躍します。
「増減はありましたが江戸時代の308藩のうち、240藩に堺の鉄砲鍛冶が出入りしていました。 井上家は大洲藩お抱えでしたが、他藩からも仕事を受けており、江戸時代中期には20藩程度とのお付き合いだったのが、後期の天保13年(1842年)には60藩もの大名と取引するようになっていました。 これは堺でもナンバー1の数です」
堺で一番ということは、もちろん全国でも一番です。
鉄砲鍛冶の多くが廃業していく中、どうして井上家が日本一の鉄砲鍛冶になったのか。
いくつか理由はありますが、最大の理由は十代目井上関右衛門 寿次(ひさつぐ)の存在にあるようです。
父宗次の早世によって、寿次が関右衛門の名を継いだのは2才の時、家督を相続したのは5才の時でした。 寿次は、若くして苦労したからか、なかなかの人物だったようです。」

(以上現井上家当主さんならではの貴重なお話を引用させて頂きました)。

【本個体の説明】
本品の筒 (銃身) を含む鉄部は黒錆に覆われていますが、これは当時の日本における防錆方法であった錆付けによるもので、欧米のようにブルー仕上げがなかった日本では一般的なものでした。 銃床に隠れる銃身下面にはやや表面錆痕が見受けられるものの、大きな欠損等は見受けられず、概ねしっかりとした状態が保たれています。 銃身下部の目釘金具と銃床の目釘穴の位置は3ヵ所とも一致しています。 尚、目釘は付属致しません。
台 (銃床) についても全体に打ち傷や線傷は散見されるものの、大きな破損や欠損は見受けられず、艶のある仕上げが良好に残った比較的明るい色合いになっています。
本品の胴金後方の銃床左側面には大変珍しい「界縣」の焼印が大きく入っています。 「界縣」とは明治元年(1868年)から明治14年 (1881年) まで存在していた堺県を示しており、現在の和泉国(現・大阪府南西部)を管轄した他、河内国 (現在の大阪府東部)、大和国(現在の奈良県)も編入されて管轄下に置かれていました。 明治4年に明治陸軍は主力小銃の統一化を図る為、旧藩に残る銃砲の種類、挺数の把握が急務となりました。 翌明治5年 (1872年、壬申) 1月から、太政官布告第28号第五則の「銃砲取締規則」によって、私蔵されていた銃砲の「我が国初の管理統制」が始まりました。 廃藩時に旧藩は旧家臣に軍用銃を下付した事例が多く見られ、旧士族の家には一挺の軍用銃があったとも言われています。 それらの銃はその後市中に大量に出回り私蔵されていました。 銃砲取締規則ではこれらの私蔵されていた銃砲について、管轄庁(東京と大阪は武庫司)に持参して改刻印式によって番号、官印を受ける(これが明治5年度であれば壬申刻印と番号)事が義務付けられました。 同時に管轄庁は同人名と番号を管轄鎮台に届け出て、鎮台より武庫司にそれらが提出される仕組みになっていました。 この調査は明治20年代頃まで銃砲調査が行われましたが、明治5年(1872年=壬申)の調査が最も大々的に行われ、今日この種類の刻印の内90-95%が壬申の年に行われた事から、古式銃に打たれた漢字の刻印をまとめて「壬申刻印」と呼ばれています。 本品は細筒で、四匁八分 (口径約14,7mm) 以下の和銃 (火縄銃) には「壬申の調査」適応外であったために細筒には「壬申刻印」はありませんが、本品には「界縣」の焼印が入っており、大阪府教育委員会交付の登録証が付いている事から、本品が明治初期の調査時に届け出が行われてから登録証が交付された平成20年頃まで、大阪府に存在していた可能性が考えられます。 また、このような焼印は細筒には殆どなく、中筒以上の士筒 (軍用筒) には見られます。 火縄銃であっても中筒以上は当時でも本品が兵器としての有効性があったので刻印が打たれました。 本品は口径は一匁五分しかありませんが、軍用銃だったので焼き印が入れられたと考えられます。
本品のカラクリの地板や弾金、火挟、雨覆、火蓋といった真鍮部分については、適度な時代感が付いた良い雰囲気となっています。 カラクリの作動については完全で、火挟を起こした際のロックはしっかりと掛かり、火挟が起きた状態で引金を引くと、火挟がスムーズに落ちます。 銃身内は銃口から銃身後部まで抜けて(通って)おり、火穴も抜けています。 尾栓についてもスムーズに取り外す事が可能で、火蓋の開閉についても問題ありません。 木製のかるか(さく杖)が付属致します。
火縄銃の生産地として名高い堺ですが、意外と「界縣」の焼印が入った堺筒は現存数は少ないものとなっています。 そのような時代背景からこの焼印があるだけで博物館や資料館に収蔵されることがあります。 特に本品のように堺鉄砲鍛冶の本歌の在銘軍用筒で「界縣」の焼印が入った品は、一般のコレクター市場では流通する事が少ない希少品となっています。 堺にご縁のある方より仕入れました。 火縄銃のバリエーションを集められている方にお勧めの真面目な一挺です。 (MM)

【その他の情報】
平成20年8月12日に大阪府教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証が付いた完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。

古式銃は約150年以上前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入いただけますようお願いいたします。 無可動実銃とは異なり作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身で行われる事をお勧めいたします。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクの詳細画像 (Detailed Photos) を十分ご確認いただいた上でご注文ください。 詳しくは本HPのメニュー・バーにある「Ordering Terms (ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。

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