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スペンサー New Model カービン (銃砲刀剣類登録証付古式銃、#103716) ■ |
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価格(税込)
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SOLD OUT |
商品番号
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【6101】 |
英 名
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Spencer New Model Carbine |
種 類
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古式銃(登録証付)、レバー・アクション、登録証付古式銃買取品、ガゼット Vol. 17、大阪店在庫品 |
国 名
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アメリカ合衆国 / 日本 |
時 代
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第一次大戦前(〜1914) |
全 長
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945mm |
口 径
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13mm (.56-50 Spencer弾) |
装 弾
数
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7発 |
在 庫
数
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SOLD OUT |
画像について
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画像は現物です。 |
コメント
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【スペンサー New Model カービンについて】
スペンサー連発銃(Spencer repeating rifle)はクリストファー・スペンサー(Christopher Miner Spencer、1833年6月20日-1922年1月14日)が開発した後装内火式の7連発レバー・アクション小銃で1860年から1869年の間に生産されました。 トリガー・ガードを兼ねたレバーを下方に引くことによってブリーチ・ブロックが下がりバット・ストック内の管状弾倉(Tube Magazine)から弾丸を薬室に送り込むと同時に空薬莢を上部から排莢します。 当時スペンサー小銃に対抗できる連発銃はヘンリー ライフルのみでしたが、ヘンリー弾は.44RFという拳銃弾程度の威力しかなく、軍用としてのストッピング・パワーではスペンサーがヘンリーに勝っていました。 しかしながら13連発という装弾数と同じレバー・アクション(操作)ながら、ハンマーも同時に起すことのできるヘンリー ライフルの方に軍配があがりました。 スペンサーはレバー操作とは別にハンマーを親指で起す必要がありました。
スペンサーの最初のモデルはM1860で南北戦争(1861年-1865年)において主に北軍によって使用されました。 M1860ライフルはカービンに先駆けて1862年のSharpsburgの戦いで始めて支給されました。 有名な1863 年のゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)ではカスター将軍(当時北軍騎兵旅団司令官)の配下のミシガン第5騎兵連隊の2個部隊もカービン(騎兵銃)ではなくライフル(歩兵銃)を使用し南軍を撃退しました。 M1860カービンは22インチ・バレルで、ライフルは30インチでした。
弾薬は.52口径のスペンサー ライフル & カービン用に1860年に開発された.56-56in. Spencerでした。一般的にはスペンサー専用のイメージがありますバラード カービン(Ballard Carbine)とジョスリン カービン(Joslyn Carbine)も同じ弾薬を使用しました。 この当時の弾薬表示方法が現在とは異なり.56-56in. とは前の数は薬莢後部(リムの直前部分)直径値である.56インチ(14.2 mm)、後の数は薬莢前部直径値である.56インチ(14.2 mm)でした。 弾丸直径は.52インチの.52口径で、薬莢の長さは.875インチ(22.2 mm)でした。 後に.50口径の.56-52in.または .56-50in. (この二つの弾薬は互換性あり)に変更されました。上記の弾薬表示から.56-52in.と.56-50in.は薬莢前部と後部の径が異なるテーパーのある薬莢を使用しました。
この三種のスペンサー弾は南北戦争の主要小銃であった.58in.施条前装小銃(rifled musket)とほぼ同じ威力がありましたが、1866年に米軍標準軍用小銃弾となったスプリングフィールド トラップ・ドア ライフル用の.50-70 Government弾(Springfield M1866用)やその後の.45-70 Government弾(Springfield M1873用)に比べ威力が少なかったのが、南北戦争後スペンサーライフルが軍用として使用されなかった原因でした。 反対にスペンサーとよく比較されるシャープスが単発ながら口径を変更しつつも米軍用として残ったのは強力な弾薬(Government弾)を使用できるように改造できたからだと言われています。
南北戦争中だけでも10万丁以上のスペンサー銃が製造され、戦後も生産が続けられましたが合衆国政府からの注文が途絶えた上に戦後の余剰火器が民間に溢れたため1868年にスペンサー社(Spencer Repeating Rifle Company)は倒産しました。 1889年にはスペンサー社の資産はウィンチェスター社のオリバー・ウィンチェスター(Oliver Fisher Winchester、サムエル・ウィンチェスターの息子)に20万ドルで売却されました。 戦後多くのスペンサー小銃は退役軍人に払い下げられ米国西部で使用され、1920年頃までスペンサー弾は製造が続けられました。 また合衆国政府造兵廠が戦後保管したスペンサー銃の多くは1870年に勃発した普仏戦争(プロシアーフランス戦争)時のフランス軍や南米のパラグアイとアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた南米史上最も大きな戦争となった三国同盟戦争(1864年-1870年)時にブラジル軍用として輸出され、日本にも南北戦争終結と同時に輸出され、戊申戦争(1868年-69年)において多数が使用されました。 日本はフランス、ブラジルに次いで大量にスペンサー銃を使用した国となりました。
スペンサー弾が軍用として威力が弱かったのが戦後軍用銃として採用されなかった大きな要因ですが、他に当時の標準的な前装銃と比べ10倍近い発射速度が「兵による弾薬の無駄使い」や弾薬の補給の問題が軍首脳部において問題視されたのが原因とも言われています。 南北戦争開戦時にはすでにスペンサー銃は開発されていましたが、新型弾を大量に消費し新参であるスペンサー社の小銃を採用することは、当時の合衆国陸軍首脳部には抵抗がありました。 ヘンリー ライフルやウィンチェスター社のイエローボーイが軍用として採用されなかったのも弾薬の威力を含め同じような政治的理由とも言われています。 1863年当時30歳であったクリストファー・スペンサーがエイブラハム・リンカーン大統領に直談判を行い、大統領を始め陸軍省長官たちの前で試射会をしてリンカーン大統領からの直々の採用命令を得るという荒業を行いました。 リンカーン大統領亡き後(1865年暗殺)の南北戦争後の制式軍用銃の採用には多くの軍関係者とコネクションを持つスプリングフィールド国営造兵廠製のトラップ・ドア小銃が採用されたのは自然の成り行きだったでしょう。 スペンサー銃は南北戦争中にバーンサイト社が3条ライフリング(スペンサー社製は6条ライフリング)のM1863モデルをライセンス生産しており、1869年にスペンサー社の資産を引き継いだウィンチェスター社でも生産が行われたと言われています。 クリストファー・スペンサーは元々はコルト社の社員でそこで銃器の設計技術を学び、26歳の若さでスペンサー連発機構のパテントを取得しています。
1868年にブリーチ・ブロックに付けられた短いナイフ型のエキストラクターに形状が変わり、エキストラクターの隠れた部分に小さな内部バネが付いてエキストラクターを常に前方に押す機能が追加されました。 この改良が加えられたモデルには「New Model」を意味する「N.M.」の刻印が銃身後部上方に打たれています。 外見的な変更がない(ブリー・ブロック上面後部に付いている部品は異なります)このモデルにわざわざ「New Model」の名称を冠したのは、1868年の時点でスペンサー銃が旧式なイメージになるのを払拭する意味合いが強くありました。 「New Model」はM1868 モデルともよばれました。 「New Model」はスペンサー社が倒産する前に生産された最後のモデルとなりました。 スペンサー社の記録がないため正確な「New Model」の生産数は判りませんが、現存する品のシリアル No.(103,000-109,000)から1868年に騎兵銃が約5,000挺(2,500挺の説もあり)、歩兵銃が約1,000挺生産されたと考えられています。 M1860が10万挺以上生産された事を考えると「New Model」の生産数はその1/10以下になります。本品のシリアルNo.「103716」から1868年の「New Model」が生産された極初期のモデルであることが窺えます。 New Modeカービンは全て20インチ・バレルで、使用弾薬はリム・ファイアの.56-50 Spencer弾、または.56-52 Spencer弾で、本品はリム・ファイアの.56-50 Spencer弾を使用します。(MM)
スペンサー 連発銃についての詳しいブログはこちら
【本個体の説明】
本品は幕末に国内に輸入された米国製オリジナルのスペンサー New Model カービンで、国内に現存しているスペンサー カービンの中では最も珍しく、リム・ファイアでありながらも最も近代的なモデル(スペンサー社製の最終モデル)です。 本体(レシーバー)上部にはSPENCER REPEATING (一行目) Rifle CO. BOSTON MASS.(二行目) PATD. MARCH 6, 1860(三行目)のメーカー刻印とパテント刻印が三行でハッキリと刻まれています。 銃身後部(リア・サイトの後ろ)左側面に漢字で「明治二十二年、八三九六 高知縣」の刻印が打たれています。 明治五年(1872年、壬申)から始まった明治政府によって行われた銃砲調査の際の登録番号で、明治二十二年(1889年)は登録年としてはかなり後になります。 本品は昭和44年に高知県で交付された登録証付きで、明治二十二年(1889年)当時より昭和44年(1969年)までの少なくても約80年間高知県にあったことを明確に表した証です。 幕末期に輸入されていますので登録証交付まで百年以上は国内にあったと考えられます。
土佐藩には1868-70年(慶応4年-明治3年)に約600名で編成された迅衝(じんしょう)隊(戊辰戦争における東山道御親征先鋒総督軍の主力部隊)があり、その一部がスペンサー カービンを使用したと言われています。 しかし現存する土佐県や高知県の刻印が入ったスペンサー カービンは少なく、土佐藩上士(御馬廻役以上)で編成された騎馬部隊(約400名)が使用したという説もあります。 迅衝隊の「砲銃局」がスペンサー銃を販売していたとも言われています。 本品は土佐にあったスペンサー銃としての歴史的証拠価値が興味深い品です。
約150年前に製造されたのにも拘らず、本品は良い保存状態で銃身後部上方(薬室上方)にNew Modelを意味する「N.M.」の刻印が打たれています。 レシーバー後部上方と銃身下部(ハンドガードの下)のシリアル No.はマッチしており、このようにシリアル No.がハッキリと判読できるのは、刻印が比較的浅く打たれているスペンサーと考えればかなりのプラス条件になります。 銃身、機関部、サイドロックを始めとする全ての金属部のブルー仕上げはほぼ落ちて古式銃らしい表面的な時代黒錆と表面的な朽込錆が多少出ていますが、非常にしっかりとした品です。 時代が経たないと付かない古式銃のage patinaと呼ばれる黒錆は落とさずに、この状態で保存される事をお勧めします。 木部はオリジナルのウォルナット製でバット・ストックとハンドガード共に素晴らしく、色合いはハンドガードが若干バット・ストックに比べ明るいですが仕上げがオリジナルの状態ですので違和感はありません。バット・ストックには米国陸軍の検査刻印であるカトシュが二ヵ所ハッキリと入っており、米軍で使用されたことが証明されています。 国内に現存するスペンサー カービンでこの米軍刻印がある品は殆どありません。 160年以上経過した木部には僅かな小傷が散見されますが、全体的に見れば傷の少ない程度の良い品です。 前後に起倒式のラダー・サイトの作動も完全品です。 レバーを下げるとブリーチブロックは下方に下がり、作動は非常にスムーズでとても気持ちの良い完全なアクションが確認できます。 機関部内部やブリーチ・ブロックにはケースハーディング仕上げがまだ少し残っています。 撃鉄はフルコック、ハーフコック共に完全に作動します。 サイド・ロックの外部の刻印は確認出来ませんが内側(内部構造)は部品の摩耗もなく完璧です。 銃口から薬室まで銃身内は完全に通っています。 ライフリングも素晴らしくハッキリと残っています。 銃床内に入る七連発チューブ型弾倉も完全で、容易に脱着が可能です。 スペンサー カービンの中でも最も珍しいモデルですがお値打ち価格に設定してあります。 東京店在庫品(MM)
【その他の情報】
本品は高知県で発見された品で刻印も高知県のもので、登録証とマッチしています。 以上の理由から幕末に日本に輸入されて以来発見されるまで、同じ場所にあった歴史的背景が判る由緒ある品です。
多くの西部劇に登場するスペンサー カービンですが、クリント・イーストウッドが監督・主演した1992年公開の映画「許されざる者」ではスタール M1858 リボルバーとスペンサー・カービンを使ったガン・アクションがメインでイーストウッドのガン・マニアぶりが前面に出ています。
登録証が付いて可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。 昭和44年10月7日に高知県教育委員会で交付された銃砲刀剣類登録証付きです。
150年ほど前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、現物をご確認の上、ご購入頂けますようお願い致します。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクに追加予定の詳細画像(Detailed Photos)を十分ご確認頂いた上でご注文下さい。 詳しくは本HPのメニュ・バーにある「Ordering Terms(ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。
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