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【TK2304S/O】火縄銃 中筒 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、在銘:地鉄巻張 摂州住 井上関右衛門作) ■ |
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価格(税込)
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SOLD OUT |
商品番号
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【433】 |
英 名
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Japanese Large-caliber Matchlock Gun |
種 類
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古式銃(登録証付)、単発、一品物、登録証付古式銃買取品、資料、ガゼット Vol.18、Curio Magazine 広告掲載品 |
国 名
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日本 |
時 代
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第一次大戦前(〜1914) |
全 長
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1,105mm |
口 径
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19mm |
装 弾
数
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単発 |
在 庫
数
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SOLD OUT |
画像について
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画像は現物です。 |
コメント
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【火縄銃 中筒 (在銘: 地鉄巻張 摂州住 井上関右衛門作) について】
本品は口径が19mm、全長が約110cm、重量約7,8kgの中筒サイズの火縄銃で、抱きかかえるようにして射撃をしたと思われます。 軍用の中筒は6匁筒 (15,8mm)〜10匁筒 (18,7mm) 前後で、それ以上は大筒と呼ばれる事もあります。 大筒の定義は定かではありませんが、抱えて射撃の不可能な50匁筒 (33mm) 以上の品を通常は大筒と呼ぶようです。
本品の筒 (銃身) は後方に向かってやや広がった丸銃身で、その上面だけを平らにした「表一角」と呼ばれる形です。 銃身前部の最も細い部分の外径は約34mmで後部の最も太い部分の外径は約46.5cmになっています。 銃口部には立派な八角柑子が設けられ、その後ろに幅広の玉縁と呼ばれる環を配しています。 目当は片杉形の先目当に加えて、元目当及び中目当が設けられています。 中目当は遠距離射撃用に設けられたものです。 尚、中目当と元目当はいずれも千切透しとなっています。 銃身は台 (銃床) に対して3か所の目釘により固定される構造となっています。 本品の銃身下部には「地鉄巻張 摂州住 井上関右衛門作」の銘が入っている他、銃床の内側 (銃身が収まる部分) に「岡田十兵衛作」と台師の銘があります。 「岡田十兵衛」は堺の台師として古文献にも名前が見られますが、余程の自信作であったのでしょうか、堂々と銘が彫ってあります。 銃身上面には肉厚で立派な銀象嵌で「丸に右三階松紋」が入っています。 「丸に右三階松紋」の家紋は津山藩士「山根家」のもので、津山藩は現在の岡山県東北部にあたり、本品に打たれてある北条縣 (旧津山藩) の壬申刻印と一致します。
カラクリは蟹目内カラクリで、カラクリの地板金や胴金、火蓋は真鍮製となっています。 引金には用心金はなく、引金後方にはナマコ金が設けられています。 火ばさみは鍛鉄製です。
【鉄砲鍛冶「井上関右衛門家」について】
堺には堺五 (鉄砲) 鍛冶と呼ばれる鉄砲鍛冶の名家が五家存在し、その一番は「榎並屋勘左衛門家」で、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用されていました。 二番手は「芝辻理右衛門家」、こちらも「榎並屋勘左衛門家」と共に鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にありました。 この両家に分家の「榎並屋九兵衛 (次右衛門)」、「榎並屋勘七 (忠兵衛)」、「芝辻長左衛門」を加えた「年寄」と呼ばれた五鍛冶が平鍛冶と呼ばれた他の鉄砲鍛冶を統制しました (後に榎並屋勘七家と榎並屋九兵衛家が脱落し三鍛冶となる)。 この「年寄」制度は海外のギルド制度と似た「職業別組合」であり、「年寄」は「組合役員」、「平鍛冶」は下請けなどを行う「組合員」でした。 しかしながら、この五鍛冶 (五人衆とも呼ばれた) は幕府御用鍛冶の代表格ではありましたが、国友の「鉄砲年寄」ほどの特権は有していませんでした。 それが後に平鍛冶であった「井上関右衛門」家が台頭する切っ掛けとなりました。
「井上関右衛門」は現在では堺の鉄砲鍛冶の代表として有名ですが、伊予大洲から初代井上関右衛門八兵衛【寛文十年 (1670年) 七月十七日没】が堺に移ったのは1600年中頃で、まだ無名の一平鍛冶でした。 大坂の陣 (1617年) の後、伊予大洲藩6万石の二代目の加藤泰興公に「井上関右衛門」の名前を賜り、当時の鉄砲の都「堺」に移り住みました。 その後、二百年の太平の世で鉄砲鍛冶にとっては苦難の時代が到来しました。 また、幕末には西洋銃の輸入/模倣製造と火縄銃製造産業に大きな分岐点が訪れました。 多くの鉄砲鍛冶が西洋銃の模倣製造を行ったのに対して、「井上関右衛門家」は火縄銃の製作に拘り続けました。 堺の鉄砲鍛冶として明治期までゲベール銃ではなく火縄銃の製作を行っていたのは「井上関右衛門家」だけであったと言われています。 幕末に「芝辻家」及び「榎並屋家」がいち早くゲベール銃の製作を始めたのは有名で、新技術の習得に務め、単なる模倣に留まらず独自の進歩も遂げ、火縄銃の道は途絶えても明治初期までは堺の鉄砲鍛冶は生き残っていました。 「井上家」ではゲベール銃 (洋式銃) は作らなかったと言われているにもかかわらず、明治中期まで存続したのは驚きです。 明治25年に開催された勧業博覧会において、当時の陸軍大臣大山巌に「井上関右衛門家」が送ったとされている銃はどのような品であったか興味が湧きます。 堺に移ってからの二百年の間に堺一とも言える鉄砲鍛冶となった井上家には様々な歴史的財産が残されています。
その一つとして、現在でも堺市指定有形文化財として井上関右衛門居宅 (作業場や店舗を始め座敷棟、道具蔵、俵倉、附属棟等) が「鉄砲鍛冶屋敷」が残っています。 当時の大きな鉄砲鍛冶は、作業場 (工房) の横に店舗を構えて製造と販売を同時に行っていた「堺商人」の逞しさが窺えます。 「元禄二年 (1689年) 堺大絵図」にも井上関右衛門の屋敷が同じ場所にあった記載がみられます。 その敷地は、東側の「中浜筋」から西側の「西六間筋」までを一区画とする広大なものです。
江戸時代末期には火縄銃の需要が激減する中、最後の名人と言われた十代目関右衛門寿次 (ひさつぐ) が伊予大洲藩お抱え鉄砲鍛冶を始め、会津から薩摩まで六十余藩に出入りする日本有数の鉄砲鍛冶となっていました。 また、2019年に井上家の蔵から274点もの古文書が発見されました。 「元請け」の井上関右衛門と金属部品等を製造する下請け職人との間で交わされた納品台帳等で、当時の鉄砲製造が分業制だった事が裏付けられる一級の資料となっています。 井上家は鍛冶年寄ではありませんでしたが、町の有力者である町年寄を勤めました。
「つーる・ど・堺」の雑記帳に鉄砲鍛冶屋敷の現当主である井上修一さんと、弟の井上俊二さんから井上家のルーツをレポートした興味深い記述があります。
「古文書によると、井上家は安土桃山時代に甲斐24万石を治めた加藤家に、(井上家は) その頃から仕えていたようです。 加藤家が、伯耆米子藩6万石を経て、江戸になって伊予大洲藩6万石に落ち着くと、2代目の加藤泰興 (やすおき) 公がやり手で非常に人材登用をやったんです。 大坂の陣の浪人たちなど、一芸に秀でたものを召し抱えました。その時に (祖先は)、お殿様から関右衛門という名を賜りました」
なぜ、関右衛門と名乗ったかという記録も残っていました。
「せっかちだったので関右衛門と、これも古文書に書いてありました」
井上関右衛門の待遇は、5人扶持で羽織袴に大小の刀という武士の扱いでした。
「5人扶持というお給料は、藩お抱えの鉄砲鍛冶としては相場でしたが、武士扱いというのは他では聞いたことがないような待遇です」
それだけ初代井上関右衛門には才覚があったということなのでしょう。
島原の乱終結後 (1638年) は戦乱も無く、時代と共に鉄砲の需要は減っていきます。 元禄9年 (1696年)の記録によると、堺の鉄砲鍛冶は54軒で100人前後が従事していましたが、次第に数を減らしていきます。
不景気もあって、5人扶持だった井上家の待遇も18世紀後半には3人扶持にまで減らされたりしています。 しかし、井上家は消滅しませんでした。
江戸時代後期になって、井上家は一気に飛躍します。
「増減はありましたが江戸時代の308藩のうち、240藩に堺の鉄砲鍛冶が出入りしていました。 井上家は大洲藩お抱えでしたが、他藩からも仕事を受けており、江戸時代中期には20藩程度とのお付き合いだったのが、後期の天保13年 (1842年) には60藩もの大名と取引するようになっていました。 これは堺でもナンバー1の数です」
堺で一番ということは、もちろん全国でも一番です。
鉄砲鍛冶の多くが廃業していく中、どうして井上家が日本一の鉄砲鍛冶になったのか。
いくつか理由はありますが、最大の理由は十代目井上関右衛門 寿次 (ひさつぐ) の存在にあるようです。
父宗次の早世によって、寿次が関右衛門の名を継いだのは2才の時、家督を相続したのは5才の時でした。 寿次は、若くして苦労したからか、なかなかの人物だったようです。」
(以上現井上家当主さんならではの貴重なお話を引用させて頂きました)。
本品の銃身には「地鉄巻張 摂州住井上関右衛門作」と銘が切ってあり、井上関右衛門は「全国鉄砲鍛冶銘鑑」P.31-32及び「全国鉄砲鍛冶銘地域別分類」P.196-197に掲載されている通り初代より十代まで井上関右衛門を襲名しており、本品が一門のどの人物により製作されたかについてはこの銘だけでは特定できません。 しかしながら、本品は井上関右衛門の中でもかなり上手な鉄砲鍛冶と思います。 (KK)(MM)
【本個体の説明】
本品の筒(銃身)を含む鉄部は黒錆に覆われていますが、これは当時の日本における防錆方法であった錆付けによるもので、欧米のようにブルー仕上げがなかった日本では一般的なものでした。 銃身は僅かな朽ち込み痕等は見られるものの、大きな欠損等は見られず、しっかりとした状態が保たれています。 非常に美しい樫材の台 (銃床) 部分は僅かな打ち傷や線傷、床尾部分に若干の欠けが見られるものの、大きな破損や欠損等は見受けられず、総じて良好な状態が保たれています。 銃身下部の目釘金具と目釘穴の位置は三箇所 (二箇所に真鍮製の目釘が付属しています) とも一致しています。
本品の銃床下部には「壬申 六百八十五番 北条縣 (北条の条は判読が困難ですが弊社資料から北条で間違いありません)」の壬申刻印が入っています。 壬申 (じんしん) とは干支の一つで明治5年 (1872年) を表します。 明治5年 (1872年) 一月に太政官布告第28号第五則の「銃砲取締規則」によって私蔵されていた銃砲の「我が国初の管理統制」が始まりました。 廃藩時において旧藩は旧家臣に軍用銃を下付けする事が多く、旧士族の家には一挺の軍用銃があったとも言われています。 それらが大量に市中に出回り私蔵されていました。 それらの銃砲は管轄庁 (東京と大阪は武庫司) に持参して改刻印式によって番号、官印を受ける (これが明治5年度であれば壬申刻印と番号) 事を義務付けました。 同時に管轄庁は同人名と番号を管轄鎮台に届け出て、鎮台より武庫司にそれらが提出される仕組みになっていました。 その際の刻印が「壬申刻印」です。壬申 (じんしん) とは干支の一つで明治5年 (1872年) を表します。 明治5年 (1872年) 一月に太政官布告第28号第五則の「銃砲取締規則」によって私蔵されていた銃砲の「我が国初の管理統制」が始まりました。 廃藩時において旧藩は旧家臣に軍用銃を下付けする事が多く、旧士族の家には一挺の軍用銃があったとも言われています。 それらが大量に市中に出回り私蔵されていました。 それらの銃砲は管轄庁 (東京と大阪は武庫司) に持参して改刻印式によって番号、官印を受ける (これが明治5年度であれば壬申刻印と番号) 事を義務付けました。 同時に管轄庁は同人名と番号を管轄鎮台に届け出て、鎮台より武庫司にそれらが提出される仕組みになっていました。 その際の刻印が「壬申刻印」です。壬申 (じんしん) とは干支の一つで明治5年 (1872年) を表します。 明治5年 (1872年) 一月に太政官布告第28号第五則の「銃砲取締規則」によって私蔵されていた銃砲の「我が国初の管理統制」が始まりました。 廃藩時において旧藩は旧家臣に軍用銃を下付けする事が多く、旧士族の家には一挺の軍用銃があったとも言われています。 それらが大量に市中に出回り私蔵されていました。 それらの銃砲は管轄庁 (東京と大阪は武庫司) に持参して改刻印式によって番号、官印を受ける (これが明治5年度であれば壬申刻印と番号) 事を義務付けました。 同時に管轄庁は同人名と番号を管轄鎮台に届け出て、鎮台より武庫司にそれらが提出される仕組みになっていました。 その際の刻印が「壬申刻印」です。 本品にはこの壬申刻印が入っている事から、明治4年11月の第1次府県統合において発足した北条縣 (ほくじょうけん、現在の岡山県東北部) に本品が明治5年時点で存在していた事が窺えます。 壬申の調査があった明治5年当時でも火縄銃は旧式武器となっており、多くの洋式小火器に壬申刻印が打たれてあったのに対して火縄銃に壬申刻印が打たれているのは珍しく、当時でも本品が兵器としての有効性があったので刻印が打たれた可能性があります。 火縄銃でも細筒に壬申刻印が打たれてある例は殆ど見られず、軍用の中筒以上の大きさの品に見られます。
また岡山県真庭市 (旧津山藩/北条縣) にある勝山武家屋敷館所蔵の古式銃三挺にも同じ北条縣の壬申刻印が打ってあります。 火縄銃(士筒)に五百二十一番北条縣、 エンフィールド 2バンド 小銃に五百十七番北条縣、モントストーム 後装式小銃に五百十八番北条縣とほぼ連番で打刻してあります。 勝山武家屋敷館所蔵の士筒と僅か180番程しか番号が違わない(多い)ので、ほぼ同時期に調査されたと思われます。 北条縣に於いては何らかの理由によってこれらの火縄銃にも壬申刻印が打たれた事が裏付けされています。 尚同資料館所蔵の士筒は弊社の本個体と非常によく似ており同時期に堺に注文された可能性もあります。
カラクリの地板金や胴金、ナマコ金といった真鍮製の金具についても適度な時代感が付いた良い雰囲気となっています。 ナマコ金とは中筒以上の大口径火縄銃の引き金の後ろに付く真鍮製の補強金具です。 その形からナマコ金と呼ばれていますが、力金とも言います。 これらの大口径銃は士筒とも呼ばれた特注品で、装飾的な意味合いでもこのナマコ金が特徴とも言えます。 カラクリの作動については完全で、火挟を起こした状態でしっかりとロックがかかり、引金を引くと火挟が力強く落ちます。 銃身内は銃口から銃身後部まで抜けて(通って)おり、火穴も抜けています。 銃身前部に極細のひびが見られますが、それほど目立たず、現状強度的にも殆ど影響の無いレベルのものです。 尚、尾栓は取り外しが可能です。 火蓋の開閉についても問題なく行う事が可能です。 カルカ (さく杖) が付属致します。 余談ですが本品は弊社代表が1993年に米国で発見し、1997年に英国経由で日本に持ち帰り、兵庫県で登録を行ったシカゴ レジメンタルス27年の歴史を共に歩んだ (少し大げさですが) 里帰り品です。(KK)(MM)
【その他の情報】
平成9年10月16日兵庫県教育委員会によって交付された銃砲刀剣類登録証 (平成17年8月18日再交付) が付いた完全可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。
古式銃は約150年以上前の古い骨董品ですので、出来ましたら現物をご確認の上、ご購入頂けますようお願い致します。 無可動実銃とは異なり、作動する機械物ですので、作動や仕上げの確認をご自身でされる事をお勧めします。 通信販売でご購入される際は、下記の詳細画像 (Detailed Photos) を十分ご確認いただき、またお電話で作動状態の説明を聞かれた上でご注文ください。 詳しくは本HPのメニュー・バーにある「Ordering Terms(ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。
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