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【TKS/D】スペンサー M1867 歩兵銃 (銃砲刀剣類登録証付古式銃、#94608)  
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価格(税込)
 SOLD OUT
商品番号
 【3989】
英  名
 Spencer M1867 Infantry Rifle
種  類
 古式銃(登録証付)、レバー・アクション、登録証付古式銃買取品、ガゼット Vol. 13、ガゼット Vol. 15、資料、東京店在庫品
国  名
 アメリカ合衆国
時  代
 第一次大戦前(〜1914)
全  長
 1,195mm
口  径
 13mm
装 弾 数
 7発
在 庫 数
 SOLD OUT
画像について
 画像は現物です。
コメント
 【スペンサー M1867 歩兵銃 について】
スペンサー連発銃(Spencer repeating Rifle)はクリストファー・スペンサー(Christopher Miner Spencer、1833年6月20日-1922年1月14日)が開発した後装内火式の7連発レバー・アクション ライフルで1860年から1869年の間に生産されました。 レバーを下方に引くことによってブリーチが下がりバット・ストック内の管状弾倉(Tube Magazine)から弾丸を薬質に送り込むと同時に空薬莢を上部から排莢します。 当時スペンサー ライフルに対抗できる連発銃はヘンリー ライフルのみでしたが、ヘンリー弾は.44RFという拳銃弾程度の威力しかなく、軍用としてのストッピング・パワーではスペンサーがヘンリーに勝っていました。 しかしながら13連発という装弾数と同じレバー操作ながら、ハンマーも同時に起すことのできるヘンリー ライフルの方に軍配があがりました。 スペンサーはレバー操作とは別にハンマーを親指で起す必要がありました。
  スペンサーの最初のモデルはM1860で南北戦争(1861年-1865年)において主に北軍によって使用されました。 M1860ライフルはカービンに先駆けて1862年のSharpsburgの戦いで始めて支給されました。 有名な1863 年のゲティスバーグの戦い(Battle of Gettysburg)ではカスター将軍(当時北軍騎兵旅団司令官)の配下のミシガン第5騎兵連隊の2個部隊もカービン(騎兵銃)ではなくライフル(歩兵銃)を使用し南軍を撃退しました。 M1860カービンは22インチ・バレルで、ライフルは30インチでした。
  弾薬は.52口径のスペンサー ライフル & カービン用に1860年に開発された.56-56in. Spencerでした。一般的にはスペンサー専用のイメージがありますバラード カービン(Ballard Carbine)とジョスリン カービン(Joslyn Carbine)も同じ弾薬を使用しました。 この当時の弾薬表示方法が現在とは異なり.56-56in. とは前の数は薬莢後部(リムの直前部分)直径値である.56インチ(14.2 mm)、後の数は薬莢前部直径値である.56インチ(14.2 mm)でした。 弾丸直径は.52インチの.52口径で、薬莢の長さは.875インチ(22.2 mm)でした。 後に50口径の.56-52in.または .56-50in. (この二つの弾薬は互換性あり)に変更されました。上記の弾薬表示から.56-52in.と.56-50in.は薬莢前部と後部の径が異なるテーパーのある薬莢を使用しました。 この三種のスペンサー弾は南北戦争の主要小銃であった.58in施条前装小銃(rifled musket)とほぼ同じ威力がありましたが、1866年に米軍標準軍用小銃弾となったスプリングフィールド トラップ・ドア ライフル用の.50-70 Government弾(Springfield M1866用)やその後の.45-70 Government弾(Springfield M1873用)に比べ威力が少なかったのが、南北戦争後スペンサーライフルが軍用として使用されなかった原因でした。 反対にスペンサーとよく比較されるシャープスが単発ながら口径を変更しつつも米軍用として残ったのは強力な弾薬を使用できるように改造できたからだと言われています。 
南北戦争中だけでも10万丁以上のスペンサー銃が製造され、戦後も生産が続けられましたが合衆国政府からの注文が途絶えた上に戦後の余剰火器が民間に溢れたため1868年にスペンサー社(Spencer Repeating Rifle Company)は倒産しました。 1889年にはスペンサー社の資産はウィンチェスター社のオリバー・ウィンチェスター(Oliver Fisher Winchester、サムエル・ウィンチェスターの息子)に20万ドルで売却されました。 戦後多くのスペンサー小銃は退役軍人に払い下げられ米国西部で使用され、1920年頃までスペンサー弾は製造が続けられました。 また合衆国政府造兵廠が戦後保管したスペンサー銃の多くは1870年に勃発した普仏戦争(プロシアーフランス戦争)や南米のパラグアイとアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた南米史上最も大きな三国同盟戦争(1864年-1870年)時にブラジルに輸出され、日本でも戊申戦争(1868年-69年)において使用されました。 日本はフランス、ブラジルに次いで大量にスペンサー銃を使用した国です。(日本におけるスペンサー銃は下記を参考)
スペンサー弾が軍用として威力が弱かったのが戦後軍用銃として採用されなかった大きな要因ですが、他に当時の標準的な前装銃と比べ10倍近い発射速度が「兵による弾薬の無駄使い」や弾薬の補給の問題が軍首脳部において問題視されたのが原因とも言われています。 南北戦争開戦時にはすでにスペンサー銃は開発されていましたが、新型弾を大量に消費する新参であるスペンサー社の小銃を採用することは、当時の合衆国陸軍首脳部には抵抗がありました。 ヘンリー ライフルやウィンチェスター社のイエローボーイが軍用として採用されなかったのも弾薬の威力を含め同じ理由と言われています。 1863年当時30歳であったクリストファー・スペンサーがエイブラハム・リンカーン大統領に直談判を行い、大統領を始め陸軍省長官たちの前で試射会をしてリンカーン大統領からの直々の採用命令を得るという荒業を行いました。 リンカーン大統領亡き後(1865年暗殺)の南北戦争後の制式軍用銃の採用には多くの軍関係者とコネクションを持つスプリングフィールド国営造兵廠製のトラップ・ドア小銃が採用されたのは自然の成り行きだったでしょう。 スペンサー銃は南北戦争中にバーンサイト社が3条ライフリング(スペンサー社製は6条ライフリング)のM1863モデルをライセンス生産しており、1869年にスペンサー社の資産を引き継いだウィンチェスター社でも生産が行われたと言われています。 クリストファー・スペンサーは元々はコルト社の社員でそこで銃器の設計技術を学び、26歳の若さでスペンサー連発機構のパテントを取得しています。

本品は1867年にスプリングフィールド造兵廠においてM1865 モデルを50口径改修し、トリガーの前に「Stabler Magazine Cut-off」と呼ばれる「マガジン(弾倉)からの給弾を止め、ブリーチを開いた状態から単発で弾を装填できる機能」を追加したNew Modelと呼ばれた改良モデルです。 銃身後部上方にM1865の「5」の上に「7」の数字が刻印されてM1867になっているダブル・スタンプと呼ばれる非常に珍しい過渡期の品です。  通常はNew Modelを意味する「N.M.」の刻印が同じ場所に打たれています。  Burnside社製のカービンをスプリングフィールド造兵廠でライフルに改造したモデルはハンドガードを留めるバンドが2個になっています。 Spencer社製のオリジナルのライフル・モデルはバンドが3個があり、本品もその3個のモデルです。また3 バンド・モデルの中にも着剣装置の有無で海軍用と陸軍用に分かれます。 海軍用は銃身の下(フロント・サイトの反対側)に着剣装置が付いてヤダカン式銃剣を装着するようになっています。 陸軍用は南北戦争当時の主力小銃のM1855やM1861と共用のスパイク銃剣を装着するため追加の着剣装置の必要はありませんでした。 本品はその銃身下着剣装置のない陸軍用です。

本品には非常に珍しいLane パテントのエキストラクターが付いた品です。

日本には幕末に佐賀藩によって輸入されたのを始め約20,000丁以上が輸入されたと言われていますが、諸藩が個別に輸入をしたためにその総数については諸説があります。 最も多かったのが薩摩の1万丁説です。 他に長州、佐土原、大垣藩が使用しています。 少なくとも戊辰戦争(慶応4年/明治元年[1868年]〜明治2年[1869年])等で新政府軍と佐幕派(庄内、米沢、上山、郡上藩)の両陣営で使用されました。 大河ドラマ【八重の桜】で主人公の「新島八重(新島襄の妻)」がスペンサー連発銃を使用して会津若松城(鶴ヶ城)籠城戦で奮戦する場面が多くあります。 八重の兄覚馬が長崎でその銃を個人的に購入したので、実際は会津藩にはスペンサーはその一丁しかなかったと言われています。 反対に攻撃をした新政府軍に多くのスペンサーが支給されていました。 当時日本国内でもスペンサーは最新兵器で「元込め7連発」と呼ばれて恐れられました。

【本個体の説明】
本品は幕末に国内に輸入された米国製オリジナルのスペンサー M1867 ライフルです。  本体(レシーバー)上部にはっきりとSENCER REPEATING(一行目) RIFLE CO. BOSTON MASS.(二行目) PATD MARCH 6, 1860(三行目)のメーカー刻印とパテント刻印が三行に刻まれています。 銃身後部の左側面には小さな文字で「癸酉 ◯◯◯◯一六0 静岡縣」の癸酉刻印が打たれています。 「癸酉刻印」は1873年に明治政府によって行われた銃砲調査の際の登録番号です。 1873年当時より日本国内(静岡県)にあったことを明確に表した証です。 約160年前に製造されたのにも拘らず、本品は素晴らしい保存状態です。 経年の表面錆こそ多少出ていますが、朽ち込み錆が殆どない非常にしっかりとした品です。 木部はオリジナルのウォルナット製でバット・ストックとハンドガード共にオリジナルの仕上げを良く残した程度が良いものです。 バット・ストックとハンドガードの色合いも比較的マッチしています(バット・ストックの方が若干色が濃くなっています。 バット・ストックの左側面前方に当たり傷、ネジ(サイド・ロックを留めるネジ)周りに傷、その後方(バット・プレートの近く)に当たり傷と軽いヒビ、右側面にも小さな当たり傷がありますが、十分許容範囲です。 ハンド・ガードを固定するネジ周りに傷があります。 約70cmもの長いハンド・ガードを含め木部全体的に見ると気になる傷の少ない程度の良い品です。 作動は非常にスムーズで完全で、とても気持ちの良いアクションが確認できます。 フレームの左右に僅かにケースハーディング仕上げがまだ少し残っているのが辛うじて確認できます。 フレームの右側のレバーを留めるネジ上方の一部に表面仕上げが取れている部分があります。 機関部内に入っているブリーチ・ブロックにはケースハーディング仕上げが残っています。 撃鉄はフルコック、ハーフコック共に完全に作動します。  リア・サイトのスプリングもしっかりしており完全に可動します。フロント・サイトのブレード部分のみ真鍮製でエイミングし易くしてあります。  バット・ストックとハンドガードに付いた前後スリング・スイベルも完全で機能します。 銃口から薬室まで銃身内は完全に通っており綺麗な状態です。 スペンサー社製の特徴である6条のライフリングもよく残っています。 銃床内に入る七連発チューブ型弾倉も完全で、容易に脱着が可能です。 元々幕末に日本に輸入された時点でライフル・モデルはあまりなく、そのため現存数がカービンに比べて遥かに少ないライフル・モデルがこれほど完全な形で残っている本品は非常に希少価値があります。

【その他の情報】
登録証が付いて可動する実物の古式銃です。 無可動実銃ではありません。 平成9年2月19日(平成27年5月19日再作製)に静岡県教育委員会で交付された銃砲刀剣類登録証付きです。

160年ほど前の古い機械物の骨董品であり、高価な品でございますので、現物をご確認の上、ご購入頂けますようお願い致します。 通信販売でのご購入を検討される方は、下記リンクの詳細画像(Detailed Photos)を十分ご確認頂いた上でご注文下さい。 詳しくは本HPのメニュ・バーにある「Ordering Terms(ご注文について)」の「04. 商品の返品について」をご覧ください。

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